時間が早く回るし、コンピューターもどんどん普及されて、機械のスピードに追われ、追い付けと、目まぐるしい。
心の平安など、どこへやらの、日々だ。
それは、自分が望んだ生活だろうか?今の社会に合わせる。
それは、
自分のこと考える時間が無い生活、ということじゃないかな。
そして、あるとき急に不調の波に襲われ、自分と向きあう時間がやってくる。
体のどこかが痛いのか?
心が「イタッ。」と、言っているのか?
それが察知できないまま?というよりは、自分に察知する感覚をOFFにして過ごすことさえ、
人は出来てしまう。
何か大事な決断が必要なのに、
少し長くかかりそうで、面倒に感じる事、
気が乗らないからと後回しにして・・・、
そのまま、忘れてきた。
それに甘えた矢先、大波小波がやって来て、
ざっぶ~ん!!と、のまれて、あわててしまう時がある。
こんなことを繰り返した自分には学習が必要であった。
「こうすればよかったのよ。」と聞く前に、何がどう間違えていたのか? に、疑問を持ってみてはどうだろう?
ところで、80をとっくに過ぎた私のお姑さんは、
大変ユニークな人で、やらかしてしまった失敗には、上を向いて「まちーがえ~た!」と、言う。 大抵お義母さんにお小言を言われた時 に、「ごめんね」という表現として使う。
嫁に来て初めてこの言葉を聞いた時、「そうか、そう言ってしまうのか」と納得した 。
「迷惑かけてごめんね」という言い方もあるけど「間違えた」とスッキリ認めてしまった方が、正しく次に進みやすいことに気づいた。 悪気はなかったのだ。
そして、このお姑さんは私にとって、とても可愛らしく思う、大切なもう一人のお父さんである。
そんなときは、「間違えた」と立ち止まってみる。
そして、どこがどのように間違えたのか、少し前を戻って考えてみる。
きっとどこかで、掛け違えて進んだところを、見つける。
それから、
正しくは「こう!」と、自分に教えたい。次の新しい自分を思い描き続けて。
至ってシンプルだけど、それが間違えた自分を軌道修正する。
やり直しは、何度してもいい、いつしてもいい。
「私がやらねば、苦しくても我慢せねば」
「その一歩が、踏み出せない」
「絶対、無理」
など、あらゆるパターンで自分の領域を囲わなくてもいい。
水がすんなり流れるように、
流れに乗って、その中を舞うようにスッキリした自分で、進んでいこう。
新鮮お野菜がとどきました。 |
大根葉は、ふりかけに。 |
見た目一緒、味二種類。ごま油白と深入りの茶色で。 |
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