2015年10月31日土曜日

黙り続けてスルーする

1人が、大勢に呼びかけました。

「協力してください」と。

答えのない返事が帰ってくる。

何も、冷やかしで協力を呼びかけたのでは無い、その人が何をして欲しいのか、聞いている側が想像できたら、それが可能かどうかがわかる。

事前に協力者らしき人に打診しておいて、大勢に呼びかけた時に「はーい」と手が上がったら、それにつられるように賛同者も得られるかもしれない。
しかし、そのつてがなかった場合、沈黙のまま無反応という、寂しい結果を目の当たりにするときもある。

大人なら、「おいおい誰もいないのか?」なんて言えるかもしれないが、子どもたちのやり取りの中だったらどうだろう。「一人ぼっち」の寂しさを味わう瞬間。

娘の好物


そんな時、その小さな心は何を考えるだろうか?

自分の心をすぐさま言語化は出来なくても、子どもの心は鋭く敏感な感覚を持っている。
こうして欲しいという気持ちを用意していたのなら、なおさらだろう。

子どもは想像力を持っている、しかしその想像力も「使わない」という日常を送ってしまっていたら、悪気なくとも、知らずに相手を傷つけてしまう時がある。お互いが、傷になると思わなかったとしても・・・。


いろんな気持ちを経験してきた私達大人は、気をつけておかなくてはならない。

日本人の文化とも言える「思いやる気持ち」は、大切で万人に必要なことだ。立場を逆転させて考えたらわかること。

どうしたら、相手の気持ちを受けられるか?伝わるか?そのノウハウは、ほんの些細なことの積み重ねで培われる。

将来、あらゆる経験をするであろう我が子に、今からの経験と準備をさせる。


「困った時は、その気持ちを、お手紙に書いてみて。」



国語表現の力だめしは、こんな形で現れる。
「さみしかった」という気持ちを、「心が凍りついた」と、表現した彼女。
短い、簡単な文にまとめて、学校へ出向く。
たくましくなったその背中を見送り、事実を見て、真実に迫って欲しい。

あなたは、「真実を知る子」だから。







2015年10月30日金曜日

その方法を知る

「歯科衛生士さんってお仕事は、歯の事よく知ってるからいいわね〜」

「ええ、特に身近な家族にとってはいいでしょうね。」

「うらやまし〜」

こんな会話から、いつの間にか得体の知れないうちに、発症する口の中の病気に悩まされ、わからぬまま治療を受ける事になる人も少なくないだろうと、思います。

だからと言って、免許を持っていれば完全に病気から回避できるとは限りません。
なぜならば、歯科衛生士になるために訓練された事、以外のアプローチも病気から身を守る方法に大変必要な事があるからです。

今や学校検診で、病気の有る無しは教えてくれますが、
それは結果のことで、何故こうなったのか? 次はどこを改善点としていけば良いのか?という、原因から見た説明に出会える事が、あったでしょうか?

検診で引っかかったから、病院へ行く、治療してもらう、はい終わる。と、一つのベルトコンベアーに乗るような流れが出来上がっている中、もし、勇気を出して疑問を投げかけたら、どうなるでしょう?
なぜ、病気になったのか?
再度発症しないようにするためには、どうすればいいのか?
いま、考えられることは?

知らなかった事が分かる…それは、疑問を投げるから分かるのです。

そして、ああしてください、こうしてくださいと色々指導を受けるなら、是非「それは、こういう事なのか?」とか、「それって、どういう事?」っと、一歩踏み込んで、納得に行き着く思考をして欲しいと思います。

「こんなこと、きいたらダメなんじゃないかな。」
「忙しそうだから迷惑なんじゃないかな。」

なんて、考えなくていいのです。

今、聞かなくて、いつ聞きますか?

少しの疑問も、その思いにしつこさがなければ、家に帰ったら忘れるんじゃないか?
情報は、調べればいくらでもある便利な時代、しかし、そんな疑問も、

ただ、忘れてしもたら、はいサイナラ。


もし、勘違いや行き違いがあっても、「なぜ?」がわかるところまでいけたら、そこでようやく納得。


着地無くて、気持ちの悪い不安定さから、脱出しましょう。





2015年10月27日火曜日

かえり船

地元の小さな音楽会へ、出かけた。

知った顔ぶれの人生の先輩たちの中に押し入るように入り込み、昔懐かしの歌から、クラッシックなど生演奏に親しんだ。

その中で、戦後シベリア抑留から日本へ帰るための船を題材にした歌がハーモニカで演奏された。
「かえり船」という曲。

当然、私は初めて聞く歌だったが、シベリア抑留と聞いて、私の父方の母(祖母)の弟がそうだったことを思い出した。

無事に日本に帰ることができ、もう一度新たな人生を送る思いだったことを聞いたことがある。

「おじさん」と、呼んでいた。
おじさんは、当時歯科医師だった。

戦後GHQが入り、「歯科衛生士」という人材が、新しく日本に必要とのことで、歯科衛生士学校を設立するための準備に関わったという。

その話を、私が歯科衛生士学校に通う中、その近くでご隠居されていたおじさん宅を訪ねては、聞かせていただいた。まさか、身内で歯科衛生士の卵が、出現するとは・・・今思えば、「私、歯科衛生士になる!」と、思いだしたかのようにスムーズに進路を決めたし、これは偶然じゃなかったのかも!?と、この職にとても運命的な出逢いを感じる。

おじさんから、歯科という医療に関わっていろいろなエピソードや、これだけは注意して訓練し覚えなさいと教えを受け、私もそのような歯科衛生士になろうと、強く思った。
その中の一つに、患者さんを施術しているとき、少しでも動いたり痛がったりしたら、両手をすぐ引ける用意をして、施術するんだよ。と、教えられたことが一番頭に残っている。

当時学生の私、その段階まで到底、達しなかったけれど、「はあ、そうですか・・・。」と、わからないなりにも答えた事を覚えている。

その時は、はっきりつかめなくても、言葉は頭にすっと入った。

以降、「それってどんな感覚なんだろう」と、頭のなかで、ぐるぐる・・・。それから、約3年後、おじさんは他界した。
その間私は2年の、学生生活を終え、晴れて歯科衛生士の免許を取得、続いて同衛生士学校の実習助手として、働きはじめて1年経ったころの出来事だった。

おじさんの遺品から、歯科医師時代の道具を見せて頂き、その中には眼科で使うハサミなど歯科用に限らず、あらゆるお気に入りの、工夫された道具が詰まっていた。
「そうか!」こういうオリジナル、ありか・・・。

あれから、約20年、私の臨床歴は10年ほどですが、自分らしい仕事の在り方を求めて今に至る。日々、誠を尽くすのみである。

思いは受け継がれる。

バトンは渡された。

今の自分を最大に表現し、私というオリジナルに生き続ける。




今週の一輪、患者様を迎えます。



2015年10月26日月曜日

人生の終わりに近づく時

小さい頃お世話になった大人の皆さんも、今となっては人生の終わりに近づいたと言う。
昔のイメージはすっかり抜けて、歳老いて、息絶え絶えの様子を聞くと、こうやって人生は終わりを迎えていくのかと思う。
余命数カ月で慌てて苦しむより、ゴールを走り抜ける全うした人生を望むなら、今から準備したい。

「もう、残りの命も少ないから・・・」と、しみじみ話されると、

社交辞令としてか、「いやいや、そんなことはないですよ。」と返すが

もうわずかだと感じるならその時、聞いた方にできることは何かと思う。

真を尽くすべく,
相手の言葉に真剣に耳を傾けて、私は私の仕事を誠意と共に、純粋に行うのみである。


人生の終わり「死」は、多くは認めたくない、
認めないという気持ちを握りしめて離さない。

開放し、認めることが出来れば、新しい扉が開き、望んでいた次元に一歩近づく。

生きている間、体があって、話し合い理解し合える時間を持てる間に、勘違いしていたことはできるだけ修正しておいたほうが、
目が覚める。


そこからまた始まることは、以前よりも、清々しく進めると思う。

人生の先輩から私達は、多くのことを学べる。

同じように、私達より後の世代や子どもたちには、学びの材料になるような「生き様」を見せたい。

40代・・・、

 人生真ん中あたり、
      右を見て、左を見て、
          過去を悔やみ、未来の不安よりも、

今という時、生きるのみ。
その連鎖が、輝きの元となる。





2015年10月23日金曜日

保育園へ行って来ました!

毎年恒例、年中・年長保育園児約30名に、歯のお話を・・・という事で。

生活の中に歯みがきの習慣が必要なことはよく知られています。今回は、近くを流れる川を題材におじいさんおばあさんが登場する昔話を、聞いてもらいました。

さて、いつものように玉手箱が出てきて、大きなお口に興味津々、お話が終わった後1人ずつ前に出てきてもらって、歯磨きしてもらいました。

人数がいると、なかなかみんなにチャンスは回りませんが、少ないからこそ出来るコミュケーションタイムです。
ていねいに
やさしく
こしょこしょ、みがく

の、3拍子。なんだか面白楽しい子どもたちの様子を見ていると、今この記憶が後に、何かの思い出になるのかな・・・




そのために、あれやこれやと小道具を使いますが、この紙芝居と玉手箱のセットは抜群です。

中身のわからない蓋を、開ける・・・子どもにとってはワクワク想像がピークに達する時です。

蓋を開けるまでのお話、開けるときの呪文、開けた後の流れ・・・説明するの難しいです。


何故ならば、向かい側の子どもたちと目には見えない、言葉にならない掛け合いをしているからです。

だから、毎回同じタイミングではないし、マニュアルも作りにくい。

まさに、「感じ応ずる」という事です。


小学校へ入る前この時期、子どもそのものと触れ合って、素直な反応に習う、大切な学びの時間でした。








2015年10月22日木曜日

ブログを紹介!

私のブログが、歯科衛生士専用とされる全国版フリー雑誌に、紹介していただくことになりました。

一般の人には手に入りにくいかもしれませんが、内容はこのブログを読んでくださっているなら、大丈夫!今回は同業者である歯科衛生士に、広く知っていただけたらいいなと思います。

ブログタイトルにもあるように、40代って仕事以外に考えることがいろいろあると思います。
生活環境、家族、健康、経済・・・そして自分自身のこと。

いいこともあれば悩みを持っている人も、多いでしょう。

「人はなぜ悩むのか?」の問に、釈迦は「無知だから」と、説いています。

無知だから悩むとは、悩み方を知らないから悩むという訳で、

しかしその前に、「無知である事を知らない」、事が問題として立ちはだかっており、遂には「無知であることを知らない」という事を知らないという、重たい蓋を自分に置いてはいないでしょうか?

だから、人は成長するために、勉強や訓練をします。

そして、そうなったらその先、自分はどうなるのか?


想像してみてください・・・
40代、人生燻らせてはいけません。
人間の思考は本来、やる気モードたっぷりの自由を求めています。
もし自分の思考がそのように働けたなら、輝ける人生が誰にでもつかめるはず。

そのために、辛く重たい努力をするのではなくて、楽しい努力が存在することを知ってください。

楽しい努力をして、身についたことの一つを紹介します。

自分をモニター的に見る自分がいると、認識できるようになったことです。
現在進行形の自分を、客観的に見ることです。

訓練したら、誰でもできます。

歯科衛生士である前の、人間力をどんどん磨いていきましょう。私達は進化しています。




2015年10月21日水曜日

1聞いて10を悟る感覚

人にはそれぞれ物事の理解の範囲と、その深さが違う。

1聞いてひらめき、2と聞けば、3から10まで、通りぬけて理解できる
1から5まで聞いて勘違いしたまま、すっ飛んでいく
4辺りから思考がストップする
3まで聞いて全て分かった・・・様な気がすると、これまた別の勘違い
1から10まで聞いてもピンともスんともこない
話の最初から聞けない

などなど、年齢や経験値、そしてその言葉に対する理解の深さから随分と差が出てくる。
1から10までわかっている方は、各段階ずつ子どもにもわかるように説明できるくらい、噛み砕き説明できる力量がいる。
決して、理解できない相手が悪いのではない。



しかし、1から10の話が、とても良い話だとしても、聞き手は


マイナス思考生活習慣病とも言えるような考え方を、常日頃から行なっていると、

マイナスの事はよく聞けて、よく耳にでき、
反対のプラス思考な考え方には、ちっとも反応できない状態になっている。

つまり、
マイナス思考歴が長いと、マイナスを基準にして物事を考えるため、いいことを聞いても、反対のことに捉えてしまう。
責められる
嫌味や皮肉に聞こえる
何かを、やらされる、強いられる

と、誤解してでもマイナスに捉えていく。

「えっ、そんなつもりで言ったんじゃないのに・・。」は、こういうズレも、影響しているのか。


これを、そのままにしておいて将来的に、幸せな生き方が来るだろうか?
誰もが幸せに楽しく、ストレスとは無縁の生活を望んでいる。

自分の思考生活習慣の見直しのためには、真理を知り、その理解を深くするために、繰り返し自分に「正しいものさし」を、示して教える必要がある。

真理に理解を深めた過去の賢者は、皆同じ事を言う。
現代の賢者においても、それは本屋さんに行けばわかるし、ネットにも出ている。

そして、理解を深めた人から、出る言葉は、なんてことない私達も過去に聞いたことのある簡単な
当たり前の言葉の意味を深く捉え、大切にしている。

たとえば、
「自主性・自発性」と聞けば、
この言葉の意味だけ知っているのか?
この言葉に沿う、人の行動はどのような状態か?
その状況にジャストフィットした、行動の選択、目の前で何が起こっているのかよく見ていないと出てこない。

しかし、これを過去の経験の記憶に任せて、無意識に任せていたら、「自己満足」という、間違った方向に着地する。


それだけ、私達がいままでに聞いた言葉の理解が、あさはかだったという事に、気付かされる。

これに気づけたら、また一つ自分の理解が深くなった、という事だから、ひとつコマが進む。


そうやって、学びをし、1聞いて10を悟れる、センスを磨き続ける。





2015年10月19日月曜日

日記という宿題

日記は、今ではブログがそれで、その人が感じたことを、自由に書いたら出来上がる。

さて、小学校の宿題として出される日記、文章の構成もあるだろうが、一番心に残ったことを、表現したらいいと思う。


記憶をたどりながら…しかし、
よくある面白くない日記は、例えば、お決まりの報告文。

したことをツラツラ書いて、最後に「楽しかったでーす!」でしめる。

我が子はこの宿題によく頭を悩ませていたし、今も悩むときがある。

思ったことを口にして、そのまま文にすればいいのに、文にすると報告書になる。
時折、どう書いたらいいかと聞きに来るので、状況を聞くと色々とネタが湧いて出てくるものだ。


ある出来事を引き合いに、そこに関わった自分,何を感じ何を考えたのか?そこを私も知りたい。

だから、質問をする。
「この内容を、知らない人にはどう教えたらいいか?」
出来事に対して
「その時、どうした?」
「どうなった?」
「どんな気持ちだった?」

と、続けていくと一つのまとまった文章になり、

それっ!!、それ書いてみて!」と、目の前で大きくわが子を指さしている私。

先が見えてくると、我が子も「そうか!」と、ピンと来たようで、あとは文にするだけである。

ノッてくると、「ここにこの言葉を入れたい」と、遊び始める。本人はウキウキ。

出来上がった日記の読み返しのチエックをたのまれて、見ると最後の文になるに連れ、句読点の○の後、3マス開けて次の文へと続いている。

「なんで3マスも開けてあるん?」
と聞くと、
「開けてみたかったんよ〜。」
ときた。
   あーそうですか、ではそのまま・・・、いっちゃってください。

翌日、提出。  どうなったんだろ、アレは・・・ま、ええか。
りんごの美味しい季節、昭和なりんごは、今の子どもはあまりしないかな・・・。

このように、「質問を繰り返して、想像力をつけていく」ことは、
生きていくための、考え方の訓練でもあると思っている。
今のわが子に何が必要で、日々何を教えていくかは、毎日の積み重ねによる結果ということで、

これが大人になれば、頭の中で力となり働くため「質問力」という言葉になる。

そのベクトルは、「出来るための理由に対する質問」に合わせる。
「今、何が出来るか?」
「他に考えられることはあるか?」
「協力は求められるか?」
などなど、状況に応じてさがせば、たくさんある。

ぜひ日々、お試しください。







2015年10月15日木曜日

大人は子どもに試されている

幼少期の我が子に、本気で何かを伝える時は、どんな事だったろうか?

面倒になる
危ない
厄介なもの

を、
排除する事に、集中している傾向がある世の中、それは本当に排除して解決に向かうのだろうか?

子どもには、とにかく「なぜ?」に、答えを見つけるための道を、確かめる事に付き合いたい。それが今すぐ大人の目に解決と、映っていなくても…。

今、何を大切で伝えなくてはいけないのか?

その真剣さを面倒になり、モノや要求にすり替えてしまったり、
力でねじ伏せてしまったら、

大事な話も止める事なく流れてしまう。

子どもからの目先の要求に、圧力をかけたり逃げたり根負けで何がなんだかわからなくなると、「その流れ」という方程式が出来上がる。

これは、排除側に結果が良いか悪いか?に焦点を当てて導き出した答えだ。


そんな計算式を、判断の基準の公式に毎回当てはめていると、


これらの経験から知恵を蓄え、本気度合いを探られているのは大人達。

その時その時の、いいと思った方法を考え出せば、方程式に当てはまらなくても、それはいい。
間違いや正解のような、二つに一つを選ぶ世界じゃないから。

次に繋げるために、あらゆる選択肢からいい方法を選び抜く。

それはまさに、
「考える」時。

子どもは、想像力に満ちている。
その想像力を追いかけるように、興味を持てば、

実は子どもたちが私達を呼んでいる。

「ねえ、ここまで来られる? 来て!」と。

カチカチの脳ミソから、アンチエイジングは難しい。

40代は、歳をとって若返りたいと切に願う前に、準備をしておこう。

それは、想像力!

子どもから、教えてもらえる事。子育てそのものは、そういう意味で得をする。







2015年10月7日水曜日

条件反射に気づく

人は誰でも、条件反射を持っている。

自分は、どんな条件反射を持っているだろう?

他人はどうかと見るには、自分にとってわかりやすいが自分自身となると、気づきにくい。

なぜ気づかないか?

それは、長年の繰り返した思考習慣が、無意識に考える間も無く、自動的に働く思考になってしまっているから、自覚しにくくなっている。

よい反応なら大歓迎だが、必要ない又は、自分にとってマイナスになる反応が自動的になっていたら、
ちょっとショックじゃないか?

例えば、
体調が悪い時、食事をしたくないと思う、
しかし、食べなくちゃいけないと思うから、無理やり食べる。
体は、食欲が無くて「いらない」と言っているのに、なぜ食べなくちゃと思うのか?

その時のからだの声に耳を傾ければ、それはなんと言っているのか?と、教えられる機会は少ない。
大切なことなのに・・・。

「自分に聞く」

その昔、太極拳を習い始めた頃、当時の先生がそう教えてくださった。
自分の体の動きは、まっすぐだと思っていても、「歪めて真っ直ぐ」としていることがある。

本当の真っ直ぐとは、自分の体で真っ直ぐを知ることだ。

そのために鏡や、窓ガラスに移った自分の姿をみて、練習したことを覚えている。

なぜ、真っ直ぐが曲がってしまっていたんだろう?
私の場合は、日常の膝の近い方が良くなくて、いつも内側に曲がる癖を持っていた。だからその動きが、太極拳をするときに間違った動きを招いた結果
膝の関節を痛めることが多々あった。

今となっては、体の要となる腰や、膝など歪めて痛めること無く日常を送れることは、
私にとって
とても得をしたと思っている。

しかし、痛みに繋がらなくとも、先生にそばでみていただけるという事は、直接指導をいただくことができ、自分の癖になっていることも気付かないところまで、見抜いてもらえる。

今日もそんな自分を知り、当たり前の動きに、ミスが重なっている部分を指摘いただき、認識した。

「あー、これか!!」

真っ直ぐな動きに、自分の偏った気持ちが込められて心が先走っているのが、動きに現れていた。

条件反射に動く自分の体、修正するには意識的に注意し続けることが必要。


このように、目にみえて映し出されるものから、自分の頭の中だけで起こっている
見えない部分、
そんなズレは、どうやら
太極拳の世界だけの話でも、なさそうだ。

ご指摘あらばありがたく、自分で発見できればラッキー、その先にはレベルアップした自分が待っている、と信じている。


硬い身に包まれた、秋の味は旬と言われるだけあり、美味しく体にも必要らしいですよ。


2015年10月4日日曜日

オリジナルな役割

考えることが趣味ともなってしまった私。

趣味は?と聞かれて、「考えることです」と、答えたなら聞いた人は、一瞬想像がつかないかも。

「考えるって何を考えているの?」

と、即座に遠慮無く、振っていただきたいものです。

決まっている予定があるなら、シュミレーションしながら流れを考えます。その設定状況から、自分が視界に入るものをヒントに、考えます。
何事においても事前にしておくことがポイントで、準備していないとやはりバタバタします。

もし予定外のことが起こったとしても、事前準備の中の何処で差し替えればいいのか?
それがどのあたりなのか?判断が早くなります。

自分を好きなようにつくりあげ、私にしか出来ないオリジナルの仕事はなにか?
それには、我慢して努力するのではなく、楽しくなりそうだと思うから準備に入り、
仕込みを入れる。
はた目には「よくそんなことやるね。」と思われることも本人にとってみれば
ワクワクと好きなことをしている。

結果的に、

  誰のかわりでも、
      
     誰でもできることのない、表現に仕上がる。

生きてる間の時間、使うなら独特の時間をたくさん表現にした方が、頭もよく働くし、
それを見ている人も応えてくれる。

これはあらゆる場面において共通する。

「私、これをしてみようと思う。」
「これ、やってみたい。」など

いずれも、相手と皆が喜ぶことを考えた先なら、ほとんどOK!



イベント多き秋の過ごしやすい季節となりました。

本日の夕食より:かぼちゃ&とりつくねバーグ
自分に、これやってみよう!と思いついたり、役割を引き受ける事になって、思わぬお仕事をする事になる時もあるでしょう。
そんな時、「私には出来ない」と思った事も、やってみればそうでもなかった・・・という経験は誰にでもあるでしょう。

「なんとかなるさ。」

も、越えられる気負わなさ。
それには続きがあって、その後、

「超えた」なら、

「次は、どんな風にやろうか?」

と、なったらもう楽しめる感覚。

そんな思いがある方向へ選択肢を向け、オリジナルの世界を作り出してゆく。



2015年10月1日木曜日

バラバラな孤独感

人はそれぞれ、孤独な時間を持っている。この時間はふとした拍子にやってくる。一人でいるときもそうだが、集団であっても、一人孤独な時間を過ごすときが誰にでもある。

1人でいる時、話し相手がいなくても満足していたらそれで良いが、満足・それでよし、とする感覚には注意してみる必要がある。


今や「孤独力」という言葉があるほど、自分に向きあう自分だけの時間に、楽しみを持ったり価値を見出したりする。


ところが、

「仕事が終わって家に帰ったらテレビを見る以外することないのに、テレビつけなくて何してるの?」
っと、聞かれたことがある。テレビは私にとってかなり優先順位が低い。

正確には見なくなった。
きっかけは「あれ、おかしいな?」と思い始めた頃、

心が荒んでしまうようなドラマが充満し、
バラエテイーや、クイズ番組では今で言う、テロップが出だした頃。(独身も終わりの頃か・・・)

自分の感情が湧くわずか前に、テロップや笑いの効果音によって誘導されてしまう感覚。
少々ニュアンスが違っていても、番組が進むに連れて統一される方向に導かれている変な感じに、違和感を感じた。いい番組も、あるけれど。


        人々は寂しくなっている、


便利になった時代なのに、便利と幸せは、イコールでつながれるだろうか?
こう、自分に質問し自分の周りを見渡してみると、今まで見えなかったものが次第に見えてくる。


「寂しい孤独」に背を向けて、情報軍にのめりこむ。

人がいるって分かっていても、向こうが挨拶をしなかったら自分も挨拶しない。
自分からは動き出さない日常。
人と話すきっかけは、ハプニングが起きた時。

そんな自分に気がつくとき、

それでよしとできるか、何か足りないを感じるか、わたしのハートはなんと言っているのか?


人はみんなハートを持っている。
ハートの声に、耳をすませる。

歳をとればとるほど、自由で夢が広がり、孤独力を楽しめる女性になりたくない?

なろうよ。