2015年12月28日月曜日

後輩を育てる

仕事でうまくいかない時がある。
注意を受けた。
失敗してしまった。
悔しい思いをした。

しかしそこでちょっと考えてみる、どうしてこうなった?

それには理由があるはず、

しかし、理にかなった理由があれば、それには応える必要がある。
事前に準備しておいたり
順番を変えたら解決したり
注意力や、練習量によって補えるものもある。

しかし、それをさておき、相手のせいにしておけば、相手のエゴに焦点が当たり、愚痴となる。
多くの人がこの相手のエゴをしっかり受け取って離そうとしない。それは自分自身にも同質のエゴがあるから、引き合う。自分と同じ種類のエゴを引きあってお互いが離さないない。
気に入らないもの同士は似た者同士という事だ。
これがいわゆるどつぼにはまった、マイナスの泥沼。

できていないと、責め立てる。
出来ていないと、自分を責める。

その逆もある、プラス同士が引きあうと、必ず前向きで、楽しい展開が待っている。

理とエゴを見分けて考える、「選択・処理の目」をもち、理の部分で納得し、次の策を見つけられたら、それに向かって進むのみで良い。

プラス思考をマスターして自分を高めていれば、理にかなった理由を素直に受け入れ、エゴを受け取ることがない。
つまり、へこむ要素を持つことは、人の生き方にブレーキをかけ、むしろ持たなくて良い資質であると長年の自分の癖に教える必要がある。

その方法の1つとして質問する思考パターンを訓練する。

質問には順序がある。まず、自分にする。なぜこうなったのかを考えられる、あらゆる事を頭から絞り出すように。
すると、おのずと解決する場合もある、しかしどうしても自分にノウハウが足りず経験者に意見を聞きたい場合に、ようやく他人に質問する時が来る。


そしてその質問をするという勇気こそが自分を高める1歩となる
このように、前もって自分の頭の中を質問によって整理しておく。

自分に何が足りなかったのか
次どうすればいいのか?
足りない部分を補うには自分にとって何が必要か?考える。


はじめのうちは経験者に答えを求めて聞きに行くのもいい、有名といわれる先生に習う事も、技術の世界にはよくある話で、私も過去にセミナーや勉強会、講演会に参加したことがある。そのうち経験を積むと、自分の色が発色しだす。オリジナリティーというやつ。

ある形式に沿ってその場限りの形を作り続けるより、自分が表現しやすい形で、理にかなっていたら、それが自分らしく働きかけるということである。
そうなると、感覚的に動くようになり、人間同士の形のない絶妙なコミュニティーの中、仕事をこなして行ける。


私に、次のステージを知らせるきっかけが来た。他職種だかヒントを頂いた。


それは、
後輩を育てること。新米、未経験者たちへ。

ノウハウを伝えることは出来ても、教えた方はそこで満足してはいけない落とし穴がある。
その後の伸びは、本人に委ねられるからだ。
説明したから、できるとは限らない。そこを合わせて、フォローが必要となる。主に、このブログ記事にもよく登場する、考え方や心構えの持ち方を、マスターして、新しいことを学ぶということ。


「努力すれば必ず報われる、どんな不器用でも。」

これは、衛生士学校の実習助手をしていた頃に、確信した。


ところが、
「努力は嫌だ」
「面倒くさい」
(出来る人を見て)「私にはできない」などの、思考習慣ある場合、
長続きしなくて失敗した状態が、三日坊主に例えられる。
マスターすべきことを聞いておいて、忘れ去って行くこと。こうなりたい願望を超えて、苦手意識が育っていること。


願望を素直に実現に向かわせるためには、今までになかった心構えの学びが、必須となる。

我が家のお父ちゃんは、料理好き。














2015年12月20日日曜日

基本という、美しさ

何の分野においても「基本は大切」 といわれる。

基本とは単純な作業に見えがちだが、それをもとにして、あらゆる枝葉がのび、経験をかさねて花開いてゆく。

新しく、
「これが基本」だとを習い始めた当初は、もちろんぎこちなく、 まるで自分を合わない型におしはめてゆく感じ。
 しかし、 基本を繰り返し馴染めば そこから 自分らしさ という応用編があらわれる、この時を待っている。


基本をマスターして おげば 応用編に うつった時に レパートリーが増す。

ではその基本作業にどれほど時間をかければ 応用編がうまく表現できるかというと
 基本が分かったと認識しても、なお繰り返し重ねることで 基礎が 固められ 土台が しっかりしていく。
だから、いつも基本はそばに置いておく。
 応用編に、憧れ早期に多く取り入れるよりも 基本を何百回も重ねておいた方が応用が綺麗に表現できる 。

華やかにみえるものも、その裏のほとんどが「基本」で、裏打ちされた厚みがある。


今、習っている太極拳の先生も、基本が大事とおっしゃいます。あわせて、「本物の太極拳」に対する語りには力が入る。

我流で基本から外れること無く、アレンジするのはよいとしても、せっかく学んだ基本を「勘違いしたアレンジ」で、本物から遠けることは、間違いだと。


 太極拳にもあらゆる種類があるが、 私は 経験年数の割にはレパートリーが少ない。
 逆に 同じことを繰り返す 年数が多かった分 基本を長く練習することができた。
 結果 次の新しい動きを覚えるにあたって長期間のシンプルな 基本が、次の応用を覚える際に一歩ずつ着実に、進めるもととなっている。

純正な基礎は美しい

見た目で分かりにくい、奥深さを持っている。

2015年12月16日水曜日

育児に使う知恵

就学前の子ども達 。
一日の終わり に近づく頃、夕食が終わって、 あとお風呂と寝るだけだ ー!ゴールはもうすぐだー!

夕食の片付けをしているあいだに 「兄弟でお風呂に入っておいで」 と言って 一筋縄に行ったことはあまりない 。だからお風呂に入っていただくために、 あらゆる手段を取ったものだ。

大した理由は無いと思うのだが、
「 お風呂に入って!」というと、
あたかも正当に、「 嫌だ!!」という。
 長男が一声あげれば、下の子もなぜが、もっともらしく口をそろえて同じセリフをいう。

まったくこれまた、困ったもんだと思うが こちらだって大人の知恵を使わねばなるまい。
この時に とにかく想像力というものが かなり必要だった 。

なんせ、このタイミングで必殺の 、「魅力的 な想像」を投げかけなくてはならなかったから。 それは私への挑戦でもあった。


それらの一つに「 レジャーシート作戦」 というのがあった。

遠足などで使用済みのレジャーシート、洗いたいが大きすぎて なかなか洗いにくい。 そこで お風呂で洗おうと思っていたところ、

例による抗議、すかさず、
「お風呂でレジャーシートしいて(排水口)塞いでみたら・・・海になったりして?」(これで行くか!?)

たちまち 目が輝きだし、回れ右で走りだす。(母:よっしゃー!!)
今でも、走り去ったあのかわいい後ろ姿たちを、忘れられない。


またある時は・・・・・・
新しい 灯油ポンプ、 子ども一人につき1 ポンプ。 プラス短めのホース1本。

ポンプから水を汲み上げて掛け合いっこしながら体を洗う。お風呂のドアも洗う。天上も洗う・・・水浸しだった。

この経験から、水位の高いところから低いところへ、ホースやポンプを通して水が流れ出ると学んだそうな。

この時はお風呂行動が早かった。

あれから、数年経っているが、子どもと一緒に買い物へ出かけ、ふと、灯油ポンプの商品を見て、「(私の)ピンクのは?」と思いだしたことから、忘れかけていたアルバムが開かれた。

そうそう、ピンクのポンプは1,5倍汲み上げ可能っていう・・・代物だったよね。


我が家の子たちは、いろいろ楽しい遊びをしてきた。

自由を、楽しんでいた。その様子に、幸せを感じていた。

私の育児の喜びは、大人の発想を超えてこそやっと、子どもしか入る事のできない聖域に少し近づける瞬間に喜びを感じた。

2015年12月14日月曜日

プレゼント

プレゼントとは決して物理的なものだけに言えるものではない。
人が満足する、感動するなど、形はないけれども、相手にそのような刺激という形
で届いたのなら,とても素敵なプレゼントだ。

そう考えれば、子どもにも、いい刺激で、楽しく人生を送れるようなノウハウをプレゼントとして送りたい。

私たちが経験したことからなら、それは経験から学ぶ、アドバイス的プレゼント。

しかし、経験する前に最低限の、「生きてくためのお約束」なるものを知っていて、伝えることができたなら、いろんなことを遠回りせずに、本質に向かいながら「人生経験」を積んでいくことが出来るに違いない。

私達は、「これ!」という中心軸を据えて、楽しく生きていっているだろうか?
自分をどう、取り扱ったらいいのか、わからなくなる時は、無いだろうか?

そこが、一番知りたい!自分の人生を自由自在に構築する事。



そうすれれば、経験する前の知識と実際の周りの大人の姿を見て、子どもは自分で見、聞きし学び取る。


そしてその学びとりが、今後のその子への人生最大のプレゼントになるわけである。
答えが自分で出せる「脳」を持つという事である。

それは日々の習慣によって積み上げられる些細なプレゼントの集まりからなる。

ありがとうって 声をかける
嬉しい気持ちを伝える
大好き
みんな元気で良かった
 困っていることはない?

人の心は、言葉で作りあげられる。

たった今、私たちはどんな言葉を、相手の心にプレゼントすることができるだろう。


文字だけをを見て、理解するより、その時 ぴったり心に 当てはまる言葉に、そのタイミングで触れることができたら 、大人だって、子どもだって、嬉しく感じる。感動する。


例えば「感謝することって大事なんだよ」と言う説明より、感謝する状態を直接、コンタクトをとることが1番伝えられる方法じゃないかと思う。

とりあえず説明した。行動した。という形だけの経験より、心で感謝を相手に届けることから、くみ取られていくのじゃないかと思う。

誰にとってもいい事ならば、素直な気持ちで素直な心を表現したい。

当たり前のことだけれども、それを表現することが難しいと思う人は、少なくない。
いいことを表現することに、嫌悪を感じてしまう・・・、そんな自分はダメな自分と決めつけていないだろうか?他人の視線が、そんなに気になるのか?

素直になれない自分て、何なんだろうか?
何が、心のブレーキとして働いている?
それはいつから?
質問は、自分に続ける。

そうやって毎回ブレーキをかける自分が1歩前進させないように日々力をかけている。本当は、そうしたい!と思う時でも自分を抑えこむ。
これを、長時間放置しておいたら、自分は何を学習するだろうか?

すぐ忘れてしまうことはあっても、些細な瞬間は、学習されていく。

あー、それリセットできるなら、したい!・・・その気がアレば、出来る。


本来の自分に、間違い探しをする学習を、真剣におこなうと...。

自分を責めることは、必要の無い事だと、この頃私の頭に、自然に定着しつつある。
理がわかり学習してみれば、なんとストレスの無い事だろう。


そうなると、とても気持ちが楽なので、毎日リラックス状態で必要なことを考えて、不必要なことは減少する。
バタバタする、振り回される、落ち着かないことが、なくなったから。

私は、少し時間をかけて、自分に合ったプレゼントを自分にできた。
その経験が、他の誰かに役に立てることがあるかもしれない。
だから、その力になれることを願って、これからも表現しようと思う。

この授かった体があるのだから。


プレゼントは、する方がワクワクする。






2015年12月8日火曜日

人間の食性

私達人間は進化を繰り返して現在に至っている 。それは 口の中のにおいても同じことが言える。

 例えば ニッコリわらった 口元に見える前歯、 平らで 厚みが薄く  食べ物が噛み切れる形になっている 。

奥歯においては臼状の形をしていて 前歯で噛みきられた 食べ物は、この臼の奥歯でつぶしながら食べている。

そして、このような役割を持った歯の存在割合で、何をどんな割合で食べてきたかが予測される。
それは、人間の食性である。


繊維がたくさんある野菜などの食べ物は前歯でかみきってから口の奥に運ばれる。

特に犬歯は尖った形をしているので、肉などを噛み切るのに適しているが、犬歯の存在割合は全体の1割程度で一番低い。

逆に、奥歯(臼歯)のすりつぶしに適した食材は穀物類、でありその割合は全体の半分以上である。
      

という事は、


人間の食性は、そのほとんどが穀物で、野菜、ついで肉類となり、その割合で食べられていたことが、私達の歯の形から読み取れる。現代食は本来の割合の逆さまではないか?


さらに、
私達は咀嚼運動をして、食事している。
前歯で何かをかみちぎり、奥歯に送りながらすりつぶして、ひとつの塊にしてゴックンする ・・・この流れが基本である。



ところが この 咀嚼という 言葉どおりの食事が現代されているかと言うと、 残念ながら 本来の機能を十分に使われないまま 丸呑み状態になっていることが多い。

小学校の給食の時間、10分以内に食事を終えてしまう児童がいた。
「なぜ10分以内で食事を終わらせることが出来るかというと?」と返すと、「噛んでないからー。」と、返事がかえってきた。
本人は、その理由が充分わかっているのだ。

でも効率に任せてか、できてしまうからか、日々習慣になっている。

毎年行われる地元の餅つきで、昼食時間のあいだに、お口の健康について話すというお題をいただいた。

ここは、三世代が集まった場所、当たり前にある機能を当たり前の視点で話すことがあってもいいのかなと、今回は「人間の食性」という切り口から、話がはじまった。


10年ほど前に離乳食の食べ方について勉強したことがある。

離乳期の半分以上は飲み込みかたの練習をする。 後は 前歯で食べ物をかじり取り 、自分の一口量を覚える という作業 仕上げていく過程を繰り返して離乳期が完了する。

この作業を覚えるために あらゆる性状の 食べ物 で口の中の処理のしかたを練習、訓練し、手と口の首、頭の連動共同作業を学ぶ。

歯の機能を、フル活用するための、練習メニュー「よく噛んで食べるために」




そして、そこに関わる介助者の大人は、おさじの取り扱い方を知る必要がある。

何を基準に、介助に付けばよいかを、説明するものは、一般的に少ない。
がために、噛まない・噛めない習慣を大人は知らないで教えているのが現状だ。


とても大切なこと、それは考えたら当たり前の事。

子どもは、成長期を一気に駆け抜ける。

大人がぼやっとしていると、必要なタイミングを取り逃がしてしまう。


人間の食性から、歯の機能を知り、今ある歯を、よく使って、よくお手入れして、健口生活始めよう。








2015年12月2日水曜日

歯は命!

当時は流行り文句として、爆発的に広がった、このセリフ。
今では、一般人も芸能人の真似ができてしまうかもしれないほど、着飾ったり、あらゆる工作を自分に施して、見栄え良く創り上げることが出来る。

口の中も同じで、本来ならなくなってしまったものでもあるように出来、とりあえず審美的にはOKだ。

「とっ変えればキレイになるよ!」という、安易な雰囲気も漂う危機感。

満足な環境を整えて、その自分への投資が有効になるか無効になるかは、その人次第。

人は、常に思考が習慣化する要素を育てている。
それは、その時その時 の考え方の習慣が

1,将来的に自分のためになる行動につながる考え方

2,将来的に自分の為にならない行動になってしまう考え方

3,その場かぎりですぐ忘れる、つまり聞いただけ、見ただけで終わり、
保留したまんまフェイドアウトしてしまう癖を持った考え方

のいずれかのパターンに当てはまる。 常にいつもどれかに振り分けられているなら、どれが自分に一番多いだろう?

現代人は年齢に関係なく3があまりにも多い。頭のなかで とどめておくことがないため 常に思考が流れ続ける。 1分前の会話がわからない。

口の中がリニューアルされ 、「さあまたやり直せるぞ」と、期待を自分にかけることは、とてもいいことだ!

それには、メンテナンスや、自己管理についての情報を得ることが必要で
更に、なぜ自分の歯がそんな状態になってしまったか?と、知識を得て、その理由がわかれば、
同じ間違いを繰り返さないノウハウを知ったことになる。

現代技術により、手にいれたものはその後の扱い方を知り、自己投資が有効となる方を選びたい。

この技術には、3を招くような仕組みも隠れている。
特に薬の効用に、頼り切ると危ない。
「痛くなったら、また飲めばいい。」という、3が来て、2の解釈にのる。



西洋医学の薬は、対処療法に基づいているため、「一時的にお世話になり」で、症状がなくなることが多い。しかし、その後何事もなかったかのように、その感覚を麻痺させる。



これはその都度、方法の選択だけでなく、自身の体をよく知ることが大切である。
つまり、歯に関心を持って行動を始めると、自分の生活そのものを、考える事になる。

ライフステージや人生経験の違いはあっても、人にとって必要なことは同じである。
体は、無理を通すと必ず悲鳴をあげる、極度の痛みが出る前に「あれっ?」と思うことがそれではないか?


賢者は歴史に学ぶ、という。

実際、自分が困るまで先延ばしにしておいて、その時慌てる人もいれば、事前に経験した人から話を聞いて、自分が回避できる道を探すという、後にとても賢明な方法を選ぶ人もある。

すべては、想像力。


「こうなるまえに、気をつけておいたほうがいいわよ〜。」っと、私が言うより先に、経験者の患者様が体験談としてお友達に語ることもあるらしい。

例えば、若い年齢層であれば、不安な疑問をたくさん持っている。
おまけに、素人では答えられない質問をぶつけられてしまい提案した人が、困ってしまったという例。

また、ライフステージが違う、50歳代の年下年齢層へ、「こうしたほうがいいよ。」と声をかけてみたが、聞く耳を持ってもらうことが難しかったと、嘆いておられた人もいた。

「自分にとって良かったことは、知らない人にも伝えたい!」と思うことは、誰しも自然な思いの流れである。

自分にも、他人からこのように、目の前に学びのチャンスは突然やってくる、
他人の経験から学び、さて自分なら何を用意しておくか?

策を練って、転ばぬ先の杖を手に入れる。




















2015年11月29日日曜日

なりたい自分を作り上げる

新しいことを始めて数年経った頃 、もっと上手くなりたいと思った私にある先生が、こんな事を言われました。
「自分に聞くんだよ」

「自分!?… どうやって聞くの?」これが率直な当時の私の答え。
自分に聞いても??何も返事返ってこない・・・ 、 どういうこと?


「どうしてもマスターしたい!」だけど 自分の体が思うように動かない。先生の話を聞いて見たらわかる...気がするけど、 もう一度自分で真似ようとすると、体が言うことを聞かない、 というより全然違う !!

このもどかしさを何とかしたいと思い、 先生に尋ねたところ帰ってきた返事が この言葉でした。

実はこういう事は、 何においても共通することではないでしょうか?
私の場合、この時の 学びエリアは太極拳でしたが...。

当時 私から見れば 「仙人」にも見えたフシギな雰囲気を持った先生、 しかし 太極拳だからこんな世界なのかというと、そうではないような気がします。この先生の言われた事は、今思えば正しかったのです。

「自分に聞く」、 つまり 自己対話するということです

頭の中で あれやこれやと自分に問いかけブツブツと繰り返す

私流で行くと、

あれは どうか? 

あれがあれ で
あれは こうだ
あれはこんな感じか...

それはどうか?
それはそれで
それはこうだ
それはこんな感じか?

とね。



そうすると、今までと違う感覚が身についてくる。
それは、「自己対話が増えるごとに自分に具合を聞きながら進める癖がつく」、という事です。

頭の中でいろいろ想像し、

あらゆる角度からの見え方を研究し、

その日の自分の体調やできる範囲を調節しながら、自分に取り入れる。



先生から教えられた事を、「ふーん」と通り過ぎるように聞き流して、練習しても、いつまでたっても上手にならない。
先生のデモンストレーションの中には、うん年分の経験値が表現されている。

これを、どれだけ自分に分かるまで解釈にこぎつけるかが、自分が技を盗むコツとも言える。


ある程度年数経てば、誰でも身につく事でも、その中身の質は年数だけでは語れない。

「どうせ自分なんて、こんなもんだ。」と諦めてはいないか?終わりにしては、いないか?

どんなに、不器用であっても、要領が悪くても、自分の感覚を自己対話で磨いて、必要な事には、取り掛かる。「ふーん。」と、通り過ぎないように、注意する。

何でも上手くなったら、自信がつく。

自分にたくさん自信を育てて、生き生きした自分になってきたら、それが、理想の自分を作り上げる過程ではないだろうか?

まさに、自分と向き合い地道を繰り返せば、いつの間にか振り返った時に、
「あれ、私こんなになってた?」
と、気付く。

自分とは、自分が作った、作品のようなもの。今日から始めれば、今日からの作品となる。

我慢して、努力する!と言うより、じっくり一つ一つ積み上げる感じ。


まさに、「上手くなりたい!」と、テンション高い願望を自分に当てはめる、

楽しい想像力がモノを言う。

たまに、食べたくなるお赤飯。








2015年11月24日火曜日

教育の中に入る

学校教育で、一番長いステージの小学校。

我が子が初めて入る頃、自分の小学校時代の古い記憶しかなく、心配や不安もあった。「何が」かというと、
「学校のシステムにのれるだろうか?」
「勉強が始まるけど,ついていけるだろうか?」
「友達は?」など、
すべて、自分の過去の記憶から、不安心理が出る。

本来、

学校ってどういうところなんだろう?
何を学ぶところだろう?
保護者になった今、何するところなのか?

まだ、我が子は学校行ってないのに、そんな事を考えていた…。
だから、就学前検診で集まる保護者の会は、そんな雰囲気に包まれている気もする。
ある小学校で、この時間に学校の図書ボランティアが、保護者に絵本を読んで聞かせる時間があった。
「だいじょうぶ だいじょうぶ」という絵本だった
優しく、語りかけて大人たちに向けた読み聞かせをする。
「素敵だ〜!」と、不安な心に、あたたかさがしみいった記憶がある。


そう、大丈夫!大丈夫!しっかりと、我が子の状態を観察して、感じ取る心を準備すれば・・・。
ところが、考えなくて良い、感じなくて良い気持ちが、湧いてくる。


学校の先生が言われる事と同じ事をし、言われた事をそのまま子どもに教え込ませる事が家庭ですることなのか?
私たちは、我が子のことをよく知っている。先生よりも知っている。
それは当然の事だが、このことを忘れてしまい、目の前の指令と感じる事に囚われてしまうと、我が子が見えなくなる。


今まで、我が子を育て、見てきた事、知った事がある。
その子がその子らしく生きるための、ほんの一部の教育時代。

長い目で考えたら、日々の事が積み重なって大人に向かうのだから、今のその時を見逃すわけにはいかない。

私個人の、過去に執着した経験から来る考え、を挟まずに、そのままのわが子に向かい合う。
そのために、自分の考え方を整理することを決意し、学んだ。
その結果、
願望は喜びと共に持てるよう、想像力豊かな子ども時代を過ごして欲しいと、思うようになった。




今や、
たくさんある授業の中の、1コマで唯一、保護者に与えられたチャンスと言えるべき時間をもった、「読み聞かせ」の時間に関わることになったPTA活動。

子のお誕生祝い:寿司ケーキ

面白くなかったら、子どもは聞いてくれないのが現実、それを我慢させるほうが、無理を子どもたちにお願いしていることになる、とするならば、

読み手が楽しくて、頑張っている姿、一所懸命に注ぎ込んでいる姿、楽しそうな姿、堂々とした姿、大人の落ち着いた姿、どれもよく見られていて、そんな姿をみて少なからず影響を受ける子どもたち。
聞かされているのではなく、聞きたいから聞く。

それに、応えられるよう大人は誠心誠意とたっぷりの愛情をそそぐ。



あの時、先輩保護者から、癒しの時間を十分に注ぎこまれ、満たされた事を忘れない。
それに応える為にも、私にできること。
教育の中に、求められるもの。自発的に、その子にとって集中というツボを刺激し、本来の自分が感じとれることは何か?その質問を繰り返して、親という経験を積む。
想像力と共に生きる子どもたちに、私たちが習うことは計り知れない。










2015年11月18日水曜日

そうは問屋が下ろさなかったこと

「それが一体何になるの?」の、続きです。
小学校のおはなしかいスペシャルは、見事に成功しました。

中でも、メンバーで土壇場まで打ち合わせを続けることになった、劇「カチカチ山」。
今となっては、喜劇「カチカチ山」とよんだほうが、ぴったりです。


ワクワクするシナリオができたのは、本番1週間前、ある行事で頑張ってる小学校の先生たちを見て、影響を受け、
「私も頑張らなくちゃ」と、自分にできることを考えだしたのがきっかけで、そのあとは加速し続ける頭の中。
ドラえもんのポケットのように、あれやこれやと「効果音」をテーマに、鳴り物を出して並べ、登場人物の気持ちが、よりはっきりするように想像をしました。

当初、絵本から起こした劇だったので、絵本の内容をそのまま人が真似することから始まりました。
実際に劇となると、掛け合いと絵本に書かれていない間合いの読み取りが、必要です。

全員素人!それなら最初からチャレンジするのみ。

私の役は、早々にお亡くなりになるおばあさんの役、終わったら暇になるじゃないか。

「そうか!!黒子で動けば堂々とウロウロしていい訳だ。」

こらしめられるタヌキを、黒子が音で表現する。

しかし、黒子らしい衣装は無いため、そこはフード服とサングラスで・・・。
ワクワクシナリオがひらめいて3日間、音出しなどの練習と、イメージトレーニングをしたら、今までしたことのない黒子キャラができたのです。
子どもから言わせれば「変な人」=それは私の望むところ。・・・このキャラに合う効果音って、やっぱり私の過去履歴からいくと、
小倉祇園太鼓の、ジャンガラかな・・・。(この話はまた別の機会に・・・。)
これも、ホンのちょいカジ程度ですが、とても練習した記憶があり、(大切な良き思い出は再び・・と、練習用のこわれたジャンガラを友人から譲り受けたまま、)音は出るからこれに決まり、と!


そこで練習、
普段耳にしない、爆裂大音響。
音のパターンを色々とって、ニヤリと笑う娘をよそに、あらゆる動きを試し・・・、


本番3日前に、メンバーに紹介を含め実際にこの音を入れて、台本にない動きを入れたり、その場に合う流れをみんなで見合って作りあげる。

メンバーにとっては、練習を重ね、ようやく全員の動きがつかめるようになった頃、
この日、ただ書いてあるセリフを言うだけになるかと思いきや、そうは問屋が下ろさなかった喜劇化。

「これで、いく!」と、熱く火種をおとしたら、周りに一気に引火した。
(そんな、カッコで・・・、そんな音なら・・・誰も止めないか。)


この練習の様子を見ていた、放課後のわが子たち、
「・・・お母さん、楽しそうやね。」
「っ楽しいよーー!!」(即答)

素人劇だから代用品も多くある、それなら代用品を使いこなすまで。たとえ割に合わない大きさでも
笑いをこらえて、役を受け、なりきる。(この日の練習は笑いすぎて、翌日、お腹と背中が筋肉痛だった私。)

それから当日までの時間、メンバーそれぞれ仕上げるための準備をしてきていた。

だから、本番が一番面白く、例年にない集中力がみなぎっていた。


会場は、小学校の図書室。

普段、「おしずかに」がお約束のお部屋。

充実した時間を、共有し、「楽しかったね。」と、ここ数日の変化を思い起こす。

1人より2人、2人より3人。数が多くて、やる気と、楽しむツボを捉えたら、その先に待っているものは、人にしか味わえない幸福感。
こんな身近な体験が、積み重なって私達の人生が出来上がっていく。

また、やろうね。








2015年11月15日日曜日

太極拳 in japan

太極拳をはじめて、10数年、途中ブランクはありましたが、これを機にあらゆる仲間と出逢いました。
今までに5人の先生に習い、それぞれ特徴のある、その場で慣れ親しんだ思い出があります。

きっかけは、過去ブログ「嫁入る前の、贈り物」で少し紹介しています。

この度、地元の文化祭で発表会がありました。

太極拳の歴史は古く、今では中国の無形文化遺産となっています。
1965年に現代版太極拳としてもっともポピュラーな「簡化24式太極拳」が制定され、その愛好者は健康でバランスのとれた生活を送るために広められ,健康的に生涯を過ごしたいと考える人は増えています。

今回は、この簡化24式太極拳の様子を紹介します。
(ピンクが私、左側の白い服をきた人は、今教えていただいている先生です)


初めてこの動きを見たとき、空気中にいるのに、水の中で動作をしている様にみえ、なんと不思議な動き、そして魅力を感じました。体の自然治癒力を高め、健康の回復・維持に大いに役立つという事です。
ある先生は、90歳になっても出来る運動ですよ、と言われましたし、80歳の先生で、前後に開脚する姿を見せていただいた時は、あまりにも見事でキレイでしたので、カルチャーショックを受けたことを覚えています。

「普段、何もない所でつまずく」、なんていう小さな困ったことはありませんか?

その昔、「太極拳をはじめて、物につまづかなくなった!」と大変喜んでいらっしゃったおばさまたちの会話が、印象的です。

更には、「ロープが張ってあるような障害物があったら、足をあげてまたいでいけるよね!」など、女子たちの雰囲気を思わせるような騒ぎぶりでした。

「そんな、悩みがあるのか・・
だからって、ロープまたいで進んじゃうその区域、OK?」、・・・何はともあれ、元気に満ち溢れる姿は、年齢に関係なく楽しそうでした。当時30代前半の自分も、この先、この人たちみたいに元気に歳をとりたいなと、思ったものです。

ってなわけで、おかげさまで人生の基礎がためとして、私が選択してきたことは、

生涯続ける運動、太極拳
5年ほど前から、食事に気をつけるようになり、正食の勉強をし、
3年前より、潜在意識の正しい使い方、訓練法を、学び始めました。

以上を、積み上げていくに連れ、私の中で徐々に本来の私の生き方の進むべき方向が示され、自分を真に磨き上げる路線に、のりました。

この3つに、共通することは、法則性に則った内容であることです。
法則とは、いつ、何処でも、一定の条件のもとでは成立する普遍的、必然的関係をいいます。

つまり、人間が人間らしく生きるには、お約束があり、
成長をし続けるより、他はない。ということで、ここから逃げれば、法則から外れるという事です。


だから、今の私に必要なことはなにか?を、常に考えます。
すなわち、
趣味:考えること

となり、自分の命ある時間を、無駄にしないことを決意するのでした。(気合!)













2015年11月10日火曜日

若人にかける

息子は中学生、時折状況判断の仕方で家族で話し合う事がよくある。
父は、我が子がかわいくて仕方がない。
だからこそ、教えておくべき事は,
事あるごとに時間をさいて話す。

家族で休日を共にするときは年に数回だが、大抵ドライブを兼ねて出掛ける、道中は普段話す事が少ない父が考える、「考え方の技術」なるものを伝授する時間である。

根本は武士道。

情けを掛けられて助かるより、情けを掛けられて情けない、もっと向上すべき事がある、常に上を目指す姿勢が大切なのだと、例を交えながら。

息子は、ひたすら相槌をうつ。

父は、あらゆる思いを含めて語る、もしかしてもうすでに超えている域に、来とるかもな・・・?なんていいながら、

子どもに対する父親像とはどんなものなのか?
それが、自分に無いためか
わが子のために模索しながら考えている父親。



自分の過去の中学時代と、今のわが子と重なる。


あの時、どうだっただろう?



「次は、こうする。」

息子の決めた答えに、父はこたえた。

「おう、お父ちゃんは、若人にかける!」


             愛と自由は両立する。







2015年11月9日月曜日

それが一体何になるの?

数年前、あらゆる「アーチスト」が、ワークショップを繰り広げる施設に、頻繁に出入りしていたことがありました。子どもをつれて、半ばお母さんが行きたいから、申し込みです。

何に引き寄せられたかというと、魅力的キーワードは

・ものつくり
・講師が、外国人または日本人でも世界単位で交通する人
・チラシをみても、何なのかよくわからないが、楽しそうと思う

です。

今思えば、
ものを生み出す人は、一体どんな感覚なのか?
どんな発想なのか?

を、探っていたような気がします。

    結果、ヒントは「何でもあり!」という事がわかりました。

参加した内容は、
ミシンを使った、たこ作り、東南アジアの楽器演奏とワークショップがセットになったもの、ゲーム感覚であらゆる物を生春巻きに仕上げる、などなど、まず日本ではありえない飛び出た時間、ほんとに楽しかったです。
出来上がったものは、それこそ「その後どうするの?」と言われてしまった作品もあり。

私にとって、何かのために作るよりも、出来上がるまでの時間、何を試行錯誤して仕上がっていくか?の感覚をもち、最終満足して「できた!」こと、自分の固定概念を壊したらうまく行ったものばかりでした。

更に、共通語が英語のみだと、わからないなりにも、なにか聞かないと進めない状況、働きかけた分だけ収穫が得られ、充実に近づけるという事です。

日本では、みんなにまんべんなく、そして受け身でも目の前にお膳立てしたように、その内容が与えられます。

自分から
さがす
えらぶ
ねる

この工程の楽しさを、知ったら「次はいかに、楽しもうか?」と、つながります。

只今、秋祭りの準備中、小学校のよみきかせチームは、これに目覚めた人たちが動き出しています。

そろそろ準備に入った私の頭も、具体的に回り始めました。
そう、「なんでも、あり!」は、子どもたちの大得意分野で大歓迎。

私にできることを、チームで広げ、頭の中で組み合わせてみたら・・・、楽しいじゃないかー!


ワクワクしてきました。






2015年11月4日水曜日

姿見

目の前で起こっていることは、自分の姿見である。


病院とは、なんだか堅苦しいイメージもあるようですが、そこに来られる人が自分の今後どうしていきたいかを、考えるきっかけになる場所なんじゃないかと思います。
本音に問いかけ働きかける時間、そこに出くわす私たちには、何が出来るのか?

自分や家族が病気や怪我などトラブルにあうとき、いろいろ考える。

そして、聞いたら「やっぱり」と、確認できることで、それは今まで触れずに通ってきた道なのかもしれない。

いつか立ち向かわなくちゃいけない時、それが姿見に映しだされた時、

帰納的に考えて、「やはり、また来たな。」とピンときたら、無意識に引っ込んでしまう自分に、「ちょっと、まった。」を、かける。


嫌な気分や、かわそうとする動きを、引き止めるには、少し勇気がいる。
そんな少しの勇気を出してしまえば、自分は帆に風を受けるように、進んでいける。

そうやって物事が進んでいくことを知った人は、足踏みすることをしなくなる。






「生きとる間は、笑っちょかな〜」(訳:生きている間は、笑いがあり続けることが一番よ)

と、ある患者様から帰り際に頂いた言葉です。

「そうですよね!!あ〜はぁっ、はぁっ、はあ〜。」と、お互い何かを悟ったように出た感激の笑いでした。個室という事もあって!?いくらか、トーンも高め、テンションも高め。

将来、こんな明るい感じで歳を重ねていきたい

生きている間、笑っていられるために、私達は足りないものを、知り補い、立ち向かう。

船長は、君だ!!


2015年10月31日土曜日

黙り続けてスルーする

1人が、大勢に呼びかけました。

「協力してください」と。

答えのない返事が帰ってくる。

何も、冷やかしで協力を呼びかけたのでは無い、その人が何をして欲しいのか、聞いている側が想像できたら、それが可能かどうかがわかる。

事前に協力者らしき人に打診しておいて、大勢に呼びかけた時に「はーい」と手が上がったら、それにつられるように賛同者も得られるかもしれない。
しかし、そのつてがなかった場合、沈黙のまま無反応という、寂しい結果を目の当たりにするときもある。

大人なら、「おいおい誰もいないのか?」なんて言えるかもしれないが、子どもたちのやり取りの中だったらどうだろう。「一人ぼっち」の寂しさを味わう瞬間。

娘の好物


そんな時、その小さな心は何を考えるだろうか?

自分の心をすぐさま言語化は出来なくても、子どもの心は鋭く敏感な感覚を持っている。
こうして欲しいという気持ちを用意していたのなら、なおさらだろう。

子どもは想像力を持っている、しかしその想像力も「使わない」という日常を送ってしまっていたら、悪気なくとも、知らずに相手を傷つけてしまう時がある。お互いが、傷になると思わなかったとしても・・・。


いろんな気持ちを経験してきた私達大人は、気をつけておかなくてはならない。

日本人の文化とも言える「思いやる気持ち」は、大切で万人に必要なことだ。立場を逆転させて考えたらわかること。

どうしたら、相手の気持ちを受けられるか?伝わるか?そのノウハウは、ほんの些細なことの積み重ねで培われる。

将来、あらゆる経験をするであろう我が子に、今からの経験と準備をさせる。


「困った時は、その気持ちを、お手紙に書いてみて。」



国語表現の力だめしは、こんな形で現れる。
「さみしかった」という気持ちを、「心が凍りついた」と、表現した彼女。
短い、簡単な文にまとめて、学校へ出向く。
たくましくなったその背中を見送り、事実を見て、真実に迫って欲しい。

あなたは、「真実を知る子」だから。







2015年10月30日金曜日

その方法を知る

「歯科衛生士さんってお仕事は、歯の事よく知ってるからいいわね〜」

「ええ、特に身近な家族にとってはいいでしょうね。」

「うらやまし〜」

こんな会話から、いつの間にか得体の知れないうちに、発症する口の中の病気に悩まされ、わからぬまま治療を受ける事になる人も少なくないだろうと、思います。

だからと言って、免許を持っていれば完全に病気から回避できるとは限りません。
なぜならば、歯科衛生士になるために訓練された事、以外のアプローチも病気から身を守る方法に大変必要な事があるからです。

今や学校検診で、病気の有る無しは教えてくれますが、
それは結果のことで、何故こうなったのか? 次はどこを改善点としていけば良いのか?という、原因から見た説明に出会える事が、あったでしょうか?

検診で引っかかったから、病院へ行く、治療してもらう、はい終わる。と、一つのベルトコンベアーに乗るような流れが出来上がっている中、もし、勇気を出して疑問を投げかけたら、どうなるでしょう?
なぜ、病気になったのか?
再度発症しないようにするためには、どうすればいいのか?
いま、考えられることは?

知らなかった事が分かる…それは、疑問を投げるから分かるのです。

そして、ああしてください、こうしてくださいと色々指導を受けるなら、是非「それは、こういう事なのか?」とか、「それって、どういう事?」っと、一歩踏み込んで、納得に行き着く思考をして欲しいと思います。

「こんなこと、きいたらダメなんじゃないかな。」
「忙しそうだから迷惑なんじゃないかな。」

なんて、考えなくていいのです。

今、聞かなくて、いつ聞きますか?

少しの疑問も、その思いにしつこさがなければ、家に帰ったら忘れるんじゃないか?
情報は、調べればいくらでもある便利な時代、しかし、そんな疑問も、

ただ、忘れてしもたら、はいサイナラ。


もし、勘違いや行き違いがあっても、「なぜ?」がわかるところまでいけたら、そこでようやく納得。


着地無くて、気持ちの悪い不安定さから、脱出しましょう。





2015年10月27日火曜日

かえり船

地元の小さな音楽会へ、出かけた。

知った顔ぶれの人生の先輩たちの中に押し入るように入り込み、昔懐かしの歌から、クラッシックなど生演奏に親しんだ。

その中で、戦後シベリア抑留から日本へ帰るための船を題材にした歌がハーモニカで演奏された。
「かえり船」という曲。

当然、私は初めて聞く歌だったが、シベリア抑留と聞いて、私の父方の母(祖母)の弟がそうだったことを思い出した。

無事に日本に帰ることができ、もう一度新たな人生を送る思いだったことを聞いたことがある。

「おじさん」と、呼んでいた。
おじさんは、当時歯科医師だった。

戦後GHQが入り、「歯科衛生士」という人材が、新しく日本に必要とのことで、歯科衛生士学校を設立するための準備に関わったという。

その話を、私が歯科衛生士学校に通う中、その近くでご隠居されていたおじさん宅を訪ねては、聞かせていただいた。まさか、身内で歯科衛生士の卵が、出現するとは・・・今思えば、「私、歯科衛生士になる!」と、思いだしたかのようにスムーズに進路を決めたし、これは偶然じゃなかったのかも!?と、この職にとても運命的な出逢いを感じる。

おじさんから、歯科という医療に関わっていろいろなエピソードや、これだけは注意して訓練し覚えなさいと教えを受け、私もそのような歯科衛生士になろうと、強く思った。
その中の一つに、患者さんを施術しているとき、少しでも動いたり痛がったりしたら、両手をすぐ引ける用意をして、施術するんだよ。と、教えられたことが一番頭に残っている。

当時学生の私、その段階まで到底、達しなかったけれど、「はあ、そうですか・・・。」と、わからないなりにも答えた事を覚えている。

その時は、はっきりつかめなくても、言葉は頭にすっと入った。

以降、「それってどんな感覚なんだろう」と、頭のなかで、ぐるぐる・・・。それから、約3年後、おじさんは他界した。
その間私は2年の、学生生活を終え、晴れて歯科衛生士の免許を取得、続いて同衛生士学校の実習助手として、働きはじめて1年経ったころの出来事だった。

おじさんの遺品から、歯科医師時代の道具を見せて頂き、その中には眼科で使うハサミなど歯科用に限らず、あらゆるお気に入りの、工夫された道具が詰まっていた。
「そうか!」こういうオリジナル、ありか・・・。

あれから、約20年、私の臨床歴は10年ほどですが、自分らしい仕事の在り方を求めて今に至る。日々、誠を尽くすのみである。

思いは受け継がれる。

バトンは渡された。

今の自分を最大に表現し、私というオリジナルに生き続ける。




今週の一輪、患者様を迎えます。



2015年10月26日月曜日

人生の終わりに近づく時

小さい頃お世話になった大人の皆さんも、今となっては人生の終わりに近づいたと言う。
昔のイメージはすっかり抜けて、歳老いて、息絶え絶えの様子を聞くと、こうやって人生は終わりを迎えていくのかと思う。
余命数カ月で慌てて苦しむより、ゴールを走り抜ける全うした人生を望むなら、今から準備したい。

「もう、残りの命も少ないから・・・」と、しみじみ話されると、

社交辞令としてか、「いやいや、そんなことはないですよ。」と返すが

もうわずかだと感じるならその時、聞いた方にできることは何かと思う。

真を尽くすべく,
相手の言葉に真剣に耳を傾けて、私は私の仕事を誠意と共に、純粋に行うのみである。


人生の終わり「死」は、多くは認めたくない、
認めないという気持ちを握りしめて離さない。

開放し、認めることが出来れば、新しい扉が開き、望んでいた次元に一歩近づく。

生きている間、体があって、話し合い理解し合える時間を持てる間に、勘違いしていたことはできるだけ修正しておいたほうが、
目が覚める。


そこからまた始まることは、以前よりも、清々しく進めると思う。

人生の先輩から私達は、多くのことを学べる。

同じように、私達より後の世代や子どもたちには、学びの材料になるような「生き様」を見せたい。

40代・・・、

 人生真ん中あたり、
      右を見て、左を見て、
          過去を悔やみ、未来の不安よりも、

今という時、生きるのみ。
その連鎖が、輝きの元となる。





2015年10月23日金曜日

保育園へ行って来ました!

毎年恒例、年中・年長保育園児約30名に、歯のお話を・・・という事で。

生活の中に歯みがきの習慣が必要なことはよく知られています。今回は、近くを流れる川を題材におじいさんおばあさんが登場する昔話を、聞いてもらいました。

さて、いつものように玉手箱が出てきて、大きなお口に興味津々、お話が終わった後1人ずつ前に出てきてもらって、歯磨きしてもらいました。

人数がいると、なかなかみんなにチャンスは回りませんが、少ないからこそ出来るコミュケーションタイムです。
ていねいに
やさしく
こしょこしょ、みがく

の、3拍子。なんだか面白楽しい子どもたちの様子を見ていると、今この記憶が後に、何かの思い出になるのかな・・・




そのために、あれやこれやと小道具を使いますが、この紙芝居と玉手箱のセットは抜群です。

中身のわからない蓋を、開ける・・・子どもにとってはワクワク想像がピークに達する時です。

蓋を開けるまでのお話、開けるときの呪文、開けた後の流れ・・・説明するの難しいです。


何故ならば、向かい側の子どもたちと目には見えない、言葉にならない掛け合いをしているからです。

だから、毎回同じタイミングではないし、マニュアルも作りにくい。

まさに、「感じ応ずる」という事です。


小学校へ入る前この時期、子どもそのものと触れ合って、素直な反応に習う、大切な学びの時間でした。








2015年10月22日木曜日

ブログを紹介!

私のブログが、歯科衛生士専用とされる全国版フリー雑誌に、紹介していただくことになりました。

一般の人には手に入りにくいかもしれませんが、内容はこのブログを読んでくださっているなら、大丈夫!今回は同業者である歯科衛生士に、広く知っていただけたらいいなと思います。

ブログタイトルにもあるように、40代って仕事以外に考えることがいろいろあると思います。
生活環境、家族、健康、経済・・・そして自分自身のこと。

いいこともあれば悩みを持っている人も、多いでしょう。

「人はなぜ悩むのか?」の問に、釈迦は「無知だから」と、説いています。

無知だから悩むとは、悩み方を知らないから悩むという訳で、

しかしその前に、「無知である事を知らない」、事が問題として立ちはだかっており、遂には「無知であることを知らない」という事を知らないという、重たい蓋を自分に置いてはいないでしょうか?

だから、人は成長するために、勉強や訓練をします。

そして、そうなったらその先、自分はどうなるのか?


想像してみてください・・・
40代、人生燻らせてはいけません。
人間の思考は本来、やる気モードたっぷりの自由を求めています。
もし自分の思考がそのように働けたなら、輝ける人生が誰にでもつかめるはず。

そのために、辛く重たい努力をするのではなくて、楽しい努力が存在することを知ってください。

楽しい努力をして、身についたことの一つを紹介します。

自分をモニター的に見る自分がいると、認識できるようになったことです。
現在進行形の自分を、客観的に見ることです。

訓練したら、誰でもできます。

歯科衛生士である前の、人間力をどんどん磨いていきましょう。私達は進化しています。




2015年10月21日水曜日

1聞いて10を悟る感覚

人にはそれぞれ物事の理解の範囲と、その深さが違う。

1聞いてひらめき、2と聞けば、3から10まで、通りぬけて理解できる
1から5まで聞いて勘違いしたまま、すっ飛んでいく
4辺りから思考がストップする
3まで聞いて全て分かった・・・様な気がすると、これまた別の勘違い
1から10まで聞いてもピンともスんともこない
話の最初から聞けない

などなど、年齢や経験値、そしてその言葉に対する理解の深さから随分と差が出てくる。
1から10までわかっている方は、各段階ずつ子どもにもわかるように説明できるくらい、噛み砕き説明できる力量がいる。
決して、理解できない相手が悪いのではない。



しかし、1から10の話が、とても良い話だとしても、聞き手は


マイナス思考生活習慣病とも言えるような考え方を、常日頃から行なっていると、

マイナスの事はよく聞けて、よく耳にでき、
反対のプラス思考な考え方には、ちっとも反応できない状態になっている。

つまり、
マイナス思考歴が長いと、マイナスを基準にして物事を考えるため、いいことを聞いても、反対のことに捉えてしまう。
責められる
嫌味や皮肉に聞こえる
何かを、やらされる、強いられる

と、誤解してでもマイナスに捉えていく。

「えっ、そんなつもりで言ったんじゃないのに・・。」は、こういうズレも、影響しているのか。


これを、そのままにしておいて将来的に、幸せな生き方が来るだろうか?
誰もが幸せに楽しく、ストレスとは無縁の生活を望んでいる。

自分の思考生活習慣の見直しのためには、真理を知り、その理解を深くするために、繰り返し自分に「正しいものさし」を、示して教える必要がある。

真理に理解を深めた過去の賢者は、皆同じ事を言う。
現代の賢者においても、それは本屋さんに行けばわかるし、ネットにも出ている。

そして、理解を深めた人から、出る言葉は、なんてことない私達も過去に聞いたことのある簡単な
当たり前の言葉の意味を深く捉え、大切にしている。

たとえば、
「自主性・自発性」と聞けば、
この言葉の意味だけ知っているのか?
この言葉に沿う、人の行動はどのような状態か?
その状況にジャストフィットした、行動の選択、目の前で何が起こっているのかよく見ていないと出てこない。

しかし、これを過去の経験の記憶に任せて、無意識に任せていたら、「自己満足」という、間違った方向に着地する。


それだけ、私達がいままでに聞いた言葉の理解が、あさはかだったという事に、気付かされる。

これに気づけたら、また一つ自分の理解が深くなった、という事だから、ひとつコマが進む。


そうやって、学びをし、1聞いて10を悟れる、センスを磨き続ける。





2015年10月19日月曜日

日記という宿題

日記は、今ではブログがそれで、その人が感じたことを、自由に書いたら出来上がる。

さて、小学校の宿題として出される日記、文章の構成もあるだろうが、一番心に残ったことを、表現したらいいと思う。


記憶をたどりながら…しかし、
よくある面白くない日記は、例えば、お決まりの報告文。

したことをツラツラ書いて、最後に「楽しかったでーす!」でしめる。

我が子はこの宿題によく頭を悩ませていたし、今も悩むときがある。

思ったことを口にして、そのまま文にすればいいのに、文にすると報告書になる。
時折、どう書いたらいいかと聞きに来るので、状況を聞くと色々とネタが湧いて出てくるものだ。


ある出来事を引き合いに、そこに関わった自分,何を感じ何を考えたのか?そこを私も知りたい。

だから、質問をする。
「この内容を、知らない人にはどう教えたらいいか?」
出来事に対して
「その時、どうした?」
「どうなった?」
「どんな気持ちだった?」

と、続けていくと一つのまとまった文章になり、

それっ!!、それ書いてみて!」と、目の前で大きくわが子を指さしている私。

先が見えてくると、我が子も「そうか!」と、ピンと来たようで、あとは文にするだけである。

ノッてくると、「ここにこの言葉を入れたい」と、遊び始める。本人はウキウキ。

出来上がった日記の読み返しのチエックをたのまれて、見ると最後の文になるに連れ、句読点の○の後、3マス開けて次の文へと続いている。

「なんで3マスも開けてあるん?」
と聞くと、
「開けてみたかったんよ〜。」
ときた。
   あーそうですか、ではそのまま・・・、いっちゃってください。

翌日、提出。  どうなったんだろ、アレは・・・ま、ええか。
りんごの美味しい季節、昭和なりんごは、今の子どもはあまりしないかな・・・。

このように、「質問を繰り返して、想像力をつけていく」ことは、
生きていくための、考え方の訓練でもあると思っている。
今のわが子に何が必要で、日々何を教えていくかは、毎日の積み重ねによる結果ということで、

これが大人になれば、頭の中で力となり働くため「質問力」という言葉になる。

そのベクトルは、「出来るための理由に対する質問」に合わせる。
「今、何が出来るか?」
「他に考えられることはあるか?」
「協力は求められるか?」
などなど、状況に応じてさがせば、たくさんある。

ぜひ日々、お試しください。







2015年10月15日木曜日

大人は子どもに試されている

幼少期の我が子に、本気で何かを伝える時は、どんな事だったろうか?

面倒になる
危ない
厄介なもの

を、
排除する事に、集中している傾向がある世の中、それは本当に排除して解決に向かうのだろうか?

子どもには、とにかく「なぜ?」に、答えを見つけるための道を、確かめる事に付き合いたい。それが今すぐ大人の目に解決と、映っていなくても…。

今、何を大切で伝えなくてはいけないのか?

その真剣さを面倒になり、モノや要求にすり替えてしまったり、
力でねじ伏せてしまったら、

大事な話も止める事なく流れてしまう。

子どもからの目先の要求に、圧力をかけたり逃げたり根負けで何がなんだかわからなくなると、「その流れ」という方程式が出来上がる。

これは、排除側に結果が良いか悪いか?に焦点を当てて導き出した答えだ。


そんな計算式を、判断の基準の公式に毎回当てはめていると、


これらの経験から知恵を蓄え、本気度合いを探られているのは大人達。

その時その時の、いいと思った方法を考え出せば、方程式に当てはまらなくても、それはいい。
間違いや正解のような、二つに一つを選ぶ世界じゃないから。

次に繋げるために、あらゆる選択肢からいい方法を選び抜く。

それはまさに、
「考える」時。

子どもは、想像力に満ちている。
その想像力を追いかけるように、興味を持てば、

実は子どもたちが私達を呼んでいる。

「ねえ、ここまで来られる? 来て!」と。

カチカチの脳ミソから、アンチエイジングは難しい。

40代は、歳をとって若返りたいと切に願う前に、準備をしておこう。

それは、想像力!

子どもから、教えてもらえる事。子育てそのものは、そういう意味で得をする。







2015年10月7日水曜日

条件反射に気づく

人は誰でも、条件反射を持っている。

自分は、どんな条件反射を持っているだろう?

他人はどうかと見るには、自分にとってわかりやすいが自分自身となると、気づきにくい。

なぜ気づかないか?

それは、長年の繰り返した思考習慣が、無意識に考える間も無く、自動的に働く思考になってしまっているから、自覚しにくくなっている。

よい反応なら大歓迎だが、必要ない又は、自分にとってマイナスになる反応が自動的になっていたら、
ちょっとショックじゃないか?

例えば、
体調が悪い時、食事をしたくないと思う、
しかし、食べなくちゃいけないと思うから、無理やり食べる。
体は、食欲が無くて「いらない」と言っているのに、なぜ食べなくちゃと思うのか?

その時のからだの声に耳を傾ければ、それはなんと言っているのか?と、教えられる機会は少ない。
大切なことなのに・・・。

「自分に聞く」

その昔、太極拳を習い始めた頃、当時の先生がそう教えてくださった。
自分の体の動きは、まっすぐだと思っていても、「歪めて真っ直ぐ」としていることがある。

本当の真っ直ぐとは、自分の体で真っ直ぐを知ることだ。

そのために鏡や、窓ガラスに移った自分の姿をみて、練習したことを覚えている。

なぜ、真っ直ぐが曲がってしまっていたんだろう?
私の場合は、日常の膝の近い方が良くなくて、いつも内側に曲がる癖を持っていた。だからその動きが、太極拳をするときに間違った動きを招いた結果
膝の関節を痛めることが多々あった。

今となっては、体の要となる腰や、膝など歪めて痛めること無く日常を送れることは、
私にとって
とても得をしたと思っている。

しかし、痛みに繋がらなくとも、先生にそばでみていただけるという事は、直接指導をいただくことができ、自分の癖になっていることも気付かないところまで、見抜いてもらえる。

今日もそんな自分を知り、当たり前の動きに、ミスが重なっている部分を指摘いただき、認識した。

「あー、これか!!」

真っ直ぐな動きに、自分の偏った気持ちが込められて心が先走っているのが、動きに現れていた。

条件反射に動く自分の体、修正するには意識的に注意し続けることが必要。


このように、目にみえて映し出されるものから、自分の頭の中だけで起こっている
見えない部分、
そんなズレは、どうやら
太極拳の世界だけの話でも、なさそうだ。

ご指摘あらばありがたく、自分で発見できればラッキー、その先にはレベルアップした自分が待っている、と信じている。


硬い身に包まれた、秋の味は旬と言われるだけあり、美味しく体にも必要らしいですよ。


2015年10月4日日曜日

オリジナルな役割

考えることが趣味ともなってしまった私。

趣味は?と聞かれて、「考えることです」と、答えたなら聞いた人は、一瞬想像がつかないかも。

「考えるって何を考えているの?」

と、即座に遠慮無く、振っていただきたいものです。

決まっている予定があるなら、シュミレーションしながら流れを考えます。その設定状況から、自分が視界に入るものをヒントに、考えます。
何事においても事前にしておくことがポイントで、準備していないとやはりバタバタします。

もし予定外のことが起こったとしても、事前準備の中の何処で差し替えればいいのか?
それがどのあたりなのか?判断が早くなります。

自分を好きなようにつくりあげ、私にしか出来ないオリジナルの仕事はなにか?
それには、我慢して努力するのではなく、楽しくなりそうだと思うから準備に入り、
仕込みを入れる。
はた目には「よくそんなことやるね。」と思われることも本人にとってみれば
ワクワクと好きなことをしている。

結果的に、

  誰のかわりでも、
      
     誰でもできることのない、表現に仕上がる。

生きてる間の時間、使うなら独特の時間をたくさん表現にした方が、頭もよく働くし、
それを見ている人も応えてくれる。

これはあらゆる場面において共通する。

「私、これをしてみようと思う。」
「これ、やってみたい。」など

いずれも、相手と皆が喜ぶことを考えた先なら、ほとんどOK!



イベント多き秋の過ごしやすい季節となりました。

本日の夕食より:かぼちゃ&とりつくねバーグ
自分に、これやってみよう!と思いついたり、役割を引き受ける事になって、思わぬお仕事をする事になる時もあるでしょう。
そんな時、「私には出来ない」と思った事も、やってみればそうでもなかった・・・という経験は誰にでもあるでしょう。

「なんとかなるさ。」

も、越えられる気負わなさ。
それには続きがあって、その後、

「超えた」なら、

「次は、どんな風にやろうか?」

と、なったらもう楽しめる感覚。

そんな思いがある方向へ選択肢を向け、オリジナルの世界を作り出してゆく。



2015年10月1日木曜日

バラバラな孤独感

人はそれぞれ、孤独な時間を持っている。この時間はふとした拍子にやってくる。一人でいるときもそうだが、集団であっても、一人孤独な時間を過ごすときが誰にでもある。

1人でいる時、話し相手がいなくても満足していたらそれで良いが、満足・それでよし、とする感覚には注意してみる必要がある。


今や「孤独力」という言葉があるほど、自分に向きあう自分だけの時間に、楽しみを持ったり価値を見出したりする。


ところが、

「仕事が終わって家に帰ったらテレビを見る以外することないのに、テレビつけなくて何してるの?」
っと、聞かれたことがある。テレビは私にとってかなり優先順位が低い。

正確には見なくなった。
きっかけは「あれ、おかしいな?」と思い始めた頃、

心が荒んでしまうようなドラマが充満し、
バラエテイーや、クイズ番組では今で言う、テロップが出だした頃。(独身も終わりの頃か・・・)

自分の感情が湧くわずか前に、テロップや笑いの効果音によって誘導されてしまう感覚。
少々ニュアンスが違っていても、番組が進むに連れて統一される方向に導かれている変な感じに、違和感を感じた。いい番組も、あるけれど。


        人々は寂しくなっている、


便利になった時代なのに、便利と幸せは、イコールでつながれるだろうか?
こう、自分に質問し自分の周りを見渡してみると、今まで見えなかったものが次第に見えてくる。


「寂しい孤独」に背を向けて、情報軍にのめりこむ。

人がいるって分かっていても、向こうが挨拶をしなかったら自分も挨拶しない。
自分からは動き出さない日常。
人と話すきっかけは、ハプニングが起きた時。

そんな自分に気がつくとき、

それでよしとできるか、何か足りないを感じるか、わたしのハートはなんと言っているのか?


人はみんなハートを持っている。
ハートの声に、耳をすませる。

歳をとればとるほど、自由で夢が広がり、孤独力を楽しめる女性になりたくない?

なろうよ。











2015年9月27日日曜日

スムーズ

こう考えた方が物事がスムーズにいく、ということがある。


例えば、

相手に、一言添えたら理解ができ、ことが運ぶ
「もーう、それ先におしえてよー。」

少し先を予測し、想像できる可能性を持っておく
「もしかして、こうなるかもしれない」「または、こうなるか?」

相手の状況を知ろうとする事、何が必要か?自分にできることは何か?何が言いたいのかな?

など、ちょうどいい加減を探る思考と、進行して行く現場の状況把握とちょっと先に必要な、動きを考える。


忙しい・面倒くさい環境だと、つい阿吽の呼吸を求めたくなるが、その前にお互いのコミュニケーションなくして、阿吽は生まれない。
確認はないよりしたほうかいいし、お互いはある程度のところで準備しておく必要がある。

水の流れが滞りのないように、人とのやりとりも、形や動きを変えて常に留まることがない。

その流れに乗って送る日々は、いつも同じ流れではないけれど、止まってはいない。
必ず進んでいる。


流れに逆らう理由は、何もない。流れを止めようとする理由も同じく。

目の前にある、流れはまさに今までの自分がつくりあげてきたもの。


急に、驚く事なかれ、それは今まで自分が積み上げてきたもの。

           何を?


今苦しいのか?爽快なのか?が答えを示してくれる。



まっすぐ歩いて行こう






2015年9月26日土曜日

味噌活用

出来立ての味噌で、娘に一品お願いする。

ゆで野菜の、味噌ディップ。

すりばちを用意し味噌からスタートし、自分が終わりと決めた所で仕上げてもらうことにした。

残り少ないマヨ、水を足してシェイクしたもので水分調節。

好みで、マヨ追加。

味噌にかぼす・・・いつもの調子で絞ったら、入れすぎた。

すっぺ、さとうさとう〜。

できたよ〜。うまい。

はい、ご苦労様。味噌にしては、さわやかな風味のディップが出来ました。ありがとう。
レシピをみて作るわけでもなく、まさにインスピレーションのまま進むとは、このことで。
この日のゆで野菜は、オクラ、きゅうり、人参、里芋でした。

いいかどうかは、自分の舌で毎回チエックしているようです。
この、「味見」という作業は、とても大切で、調味料を入れる前と、入れた後でどう違うのかを舌で考えているようで、この経験が次の料理の調味料選びに役立っているようです。

何においても、before/afterは、大切です。

自分が通り過ぎてきたものに対して、振り返ってbefore/afterが、言葉にできたらその経験はその人そのものになっているという事でしょう。

新しいレシピに挑戦するだけでなく
新しい本に出逢う
何か人から、教えてもらって生活に取り入れる

など、様々な事例がある中、さてその後どんなafterが、待っていたのか、あなたにどんな
before/afterがありましたか?

自分にとって、成長する方向に変換の道が進むといいですね。








2015年9月22日火曜日

よし、今だ!

昨年12月に、仕込んだ自家製大豆味噌。
今年のゴールデンウイーク頃なら、いつ蓋を開けても良かったのだが、前年はまだ熟成が若く、味噌の色が仕込んだ時とあまり変わらなかったため、今回はすこし期間を伸ばして・・・とするうちに秋になり、「あ・・そうだった。もう、今の味噌、なくなるしな・・・。」

一度蓋を開けたら、小分けしてすべて冷蔵庫に移す必要があるため、

        そろそろよ、いつにしようか・・・

ゆっくりした静かな休日の朝、天気もよく気持ち良い。
「よし、今だ!」

と、床下収納から、8キロの味噌容器を取り出し作業へ。
「なんだか、麹菌が容器外にも充満してる感じ・・・。」

蓋を開ける前に、娘に一声
「味噌の蓋、開けるよ〜」
「ええ〜っ!!」(とっ、とっ、とっ、とっ)近づいてくる。

娘は、味噌汁が大好き。
早速、この状況を見にやってきた。

さあ、できあがり確かめの瞬間、蓋を開けると・・・、色づきも良く、バッチリな感じ。

「できた!」
大きめのタッパー5つ用意。

ゆで大豆、1,5キロ
塩入り米こうじ5キロ、のみで作った味噌、防腐剤はない。

活きた菌の熟成に任せて、味噌が出来上がる。
これは、日本の土地にしかできない、独特の調味料。しかも、私達のからだが欲しがっているものだ。これから、温かい汁物がとても美味しい季節。


今年も美味しい味噌汁、作るよ〜。

思い立った瞬間から、作業は一気に進む。
これが、いつもの集中時間。終わったあとはとても気持ちいい。

そんな、集中時間を楽しみながら、これからの時間も使っていきたい。





2015年9月18日金曜日

ツモリの感覚

歯磨きひとつとっても、ツモリの感覚に支配される。

舌で歯の表面を触ってツルツルしてるからOK !としても実は、汚れてますよ~まだまだ歯ブラシで取れる範囲ですよ、とコメントが出される、歯科の日常。

「そうは言うてもねぇ!そんなに歯ブラシばかりに時間はかけられんよ」と、いうのが本音かも!?

何分か時間さえかければ、かけた時間だけ歯はキレイになるのか?と聞かれれば、そうとも言い切れない。何故ならば、口の中の掃除をしようと思えば、それなりに知っておかなくてはならないことがある。
  相手を知ることにより、より的確な作戦がたてられるというものだ。                   
    1,歯磨きというのだから、まずは、歯から話をすると、
  • 歯は、丸い、または楕円形をしている。                         そこに歯ブラシを当てて動かしたら、まず丸みの強いところの汚れから、こそぎ落とされる。   同じ動きを繰り返しても、すでにキレイになっている部分を二重に擦ることになるため、                                             当てる位置を変えるか、                              ブラシの向きを変えないと、                                   一本の歯もまともに磨けないことになる。
2,次の口の周りの筋肉について

  • 歯ブラシを口の中に入れる際、意外とその動きを邪魔するのが、唇や舌、また口をしっかり開け過ぎると、歯ブラシの入りを邪魔する頬の筋肉。                     これらは、粘膜に入る力や緊張を緩めることで、ブラシの動きの制限がやわらぎ、操作がしやすくなる、歯ブラシを当てたい場所に持っていける。

    3,効率良く、汚れを片付けるため清掃道具の選択にも気をつけて

  • あらゆるデンタルリンス剤や歯みがき剤が売られる中、すっかりそれらの効能にお世話になりやっと綺麗になるわけではない。基本はやはり、歯の汚れに対し直接働きかける、「こする」という機械的作業。何かが当たってこすられることにより、歯の汚れは落ちるのである。                                                 こするための道具は皆さんご存知の通り。また、平切り歯ブラシの弱点を克服するかのような、ヘッドの小さい、ポイント磨き用の歯ブラシは、ポイントと言わずにメインに置き換えて歯みがきタイムを過ごすほうが、逆に時間単縮に役立つと言われている。
情報が氾濫する中にいる現代人は、自分にジャストサイズを選択するためにも、歯科医院を自分のために利用して欲しい。

まな板の上の鯉では、一番知っている自分の加減が無視されることになる。
それでいいのかと、自分に問えば実は自分は何が知りたいのか?何のために、足を運んでいるのかと、考えれば答えは自然に出てくる。

自分の歯を自分で守るための行動をより多く知って、楽しみを持って取り入れられたら、歯みがきもちょっと違う感覚になるのかな・・・。

念入りに磨いたあとの爽快感、たくさんの人に知ってほしい。

あれっ、と思ったことは思い留めておかなくては、どんどん流れていく。


さて、   
あらゆる場面に置き換えても同じだが、


自分にとって出来ていなくて気になっていることは、誰にでもある。
できていなくて、何とかしたいから、出来るようになる情報が目の前にやってくる。

だがその情報のみ、その時だけ見聞きして、あとは実行になかなか移れずまたは続かず、放おっておくと、「放ったらかしが平気な感覚」になる。

放ったらかしたまま、「ツモりの感覚」になれば、大変な落とし穴になることもある。
簡単な歯ブラシの話から、日常に当てはめて、
自分から大切だと引き寄せておいて、実行または成就に届かないでいることはないか?

自分自身に焦点を当ててみる。










2015年9月13日日曜日

ブレない勉強法

義務教育時代、答えを見ないで問題が解けるまで訓練をする。ドリルみたいに。
しかし、解き方が導けず、答えがどうしてもわからない時は、答えを見た。

教室でこれをやると、
「あ〜、答えみたらあかんのに〜。」ってな具合で、吊し上げ状態になる。

だから家でやる。

答えを横に置いて、ものすごいスピードでノートに写す人もいた。
しかし、それをやっているうちに、解き方を覚えてしまったという人の話も聞いたことがある。
どんなルートであろうとも、問題を解く訓練に手段は様々。  とするなら、

「これが答えですよ」

と、置かれてそれを当てはめさえすれば問題が解けるなら、それは原則といえる、数学で言う公式に当てはめるという事だ。

人の意識も同じく、原則があった。

それは、動物と人間の違いを当てはめたら成り立つものだった。


動物には、人間のように過去未来を知覚できる意識がない。現在のみに生きている。


よって、目の前にある楽を貪り、目の前の苦から逃避することが、自らを守る選択となる。

人間は動物にはない、「苦楽を引き寄せる法則が逆さまである意識の次元」を、持つようになった。
(肉体は物理次元なので、動物的反応のままで良い)

しかし、意識次元に物理次元では有効に働く「楽を貪り、目の前の苦から逃避する」反応を持ち込むと、結果として、楽を失い苦を増大させる結果を招く。
                       {重見幸俊プログラムより抜粋}



人間は、「苦に立ち向かい、楽に対しては準備して待つ」と、事の運びは、およそうまく行くことが、
わかった。

面倒くさい、それは人事、やりたくない、と、思いが先に立つなら、なかなか辿りつけない。
また、そのとおりと思えど、間違った方向に捉えてしまっても結果は同じく。

内在する本当の自分を解体する学びをしつつ、方向性をあわせ、苦に立ち向かう理由を、答えから知れば、ブレも少なくなる。
それでも解体すれば、間違った方向に捉えている自分は、普通200も300もあると言われている。

それだけあるなら、時間のかかる学びと一目瞭然。それをいつ始めようが、気づいた時がラッキータイミングだったという事になる。

今となって、言えることだけど・・・。
階段を1段ずつ、ゆっくり登る学びは、達成感アリ!







2015年9月11日金曜日

脳も、アップデート!

自分のこと、好きですか?と聞かれて、好きを選べますか?

あらゆる人に、間違いなく「はい」のセリフを選択して欲しいです。

「好き」に、ためらいがあったらそれは、なぜでしょうか?

そう考えると、ここがよくない、あそこがよくない
ここができてない、などと、重箱の隅をつつきまわしてでも、嫌な自分、しあわせではない自分をどんどん説明してしまう。
うまくいったにしても、「いやいやまだまだ全然ダメだ」と、言葉に出てしまうとするなら、

いつになったら、「うまくいってるぞ」、「よく頑張ってるな」って、思うのでしょう。
それは、誰が言って認めてくれるのでしょう。
ゴールできるのはいつ?

私の父は、人から褒められると
「いやいや、なかなか・・」と必ず言いました。

子どもの時、どういう意味なんだろうと思っていました。

顔は、嬉しそうなのに、言葉は「いやなの?」なーんて・・・。


それが、世間体なのかもしれなかったけれど、時代は進化しています。
昔、常識な振る舞いだと思っていたことは、我が子を育てる時代まで常識のまま置いておいていい部分と、そうではなくなった部分もあることを、認識する必要があります。

人間の仕組みも、解体されている中、心のあり方も同じことが言えます。
「自分自身を信じられる人生」の中で、私達は生きていきたいものです。
忙しいと言われる時代が来て、自分自身を置いてきてしまった私達、必要でないものをたくさん抱えて、それとは知らずに、悩みの渦に巻き込まれて、沈んでいないか?


人の意識に焦点が当たる時代となりました。


難しいことをするわけでもなく、現状の自分を自分を知り、より良い自分を求めて一歩ずつ。
求めるからこそ、目の前に必要なことがやってくる。

自分に、努めて教えなくてはいけなくなってしまっている、自尊心。
自尊心は、人からなにか言われて傷つくものではなく、傷つくとすればそれは自尊心ではない。
自分を信じているからこそ、自尊心となる。

脳を、アップデートして、信じられる自分を迎え入れる準備をしよう。

2015年9月9日水曜日

賢者が残した言葉

アインシュタインが未来の私たちに残した数ある言葉の中に、

学校で学んだことを、 一切忘れてしまった時に
なお残っているもの
それこそ教育だ

という言葉が、あります。
 これは、何を指し示しているのでしょうか?
天才の言うことは、天才にしかわからない.....ことはないのです。
私たちも、考えればわかります。

学校教育で色々と、学習しますがそれも日常使わなければ次第に忘れます。
「あれは何だったかな?」と、調べばわかるものは、調べさえすれば良いのです。
自分の中に、教えて育てられているもの
知識が知識だけでとどまらず、自分そのものになった時、覚えていようとしなくても、行動や考えに辿りつける迷いのない感覚。

1,無意識的有能・・・つまり、考えて無くても、そう感じ、そう出来るのがすでに自動的な認識のこと。

になるなで、大切なことを自分に、働かせたい。

しかし、
2,分かったから、やれば出来る・・・・意識的有能
3,わかっちゃいるが、出来ない。・・・・意識的無能
4,分かっていないから出来ないし、分かっていないことが分かっていない。・・・無意識的無能

と、人間の認識の段階は4つに分けることが出来ます。


1,は意識の段階が一番深く入り、忘れることのない状態、身近な例えでは、小学校で習う九九。
何回も繰り返し、頭に入るまで。九九をもう一度習い直したいという人は少ないと思います。

自分に必要なことは、正しく頭にいれて、さらに忘れないようにくりかえす。

一度、いれたら、再度入れなおさなくてもいい、ここに来る前の段階2,分かったから、やれば出来るで放おっておくと、段階3,4,と落ちていき、最後は全く忘れてしまった状態に、後戻りするのです。

いい話を聞いたあとでも日常このような忘れ方、経験したこありますよね。

     自分が生きていくにあたって、何を育てておく必要があるのか?





わが子に、たくましく生きていって欲しいと、誰もが願う。


子どもを育てる私達は、そのカジをとらなければいけない。
大人は、見ぬく目を必要とする。
何をもっていたら、正しく見抜けるのか?それを探しながら、知った端から、待った無しの子育てに活かす必要がある。


無意識的有能にまでたどり着かせ、迷いの残らない素直な子育てを楽しみたい。

それは
「自分らしく、したい事をして生きる人生」を、親子ともに歩むためにも。




2015年9月6日日曜日

本質にせまる

物事の全てにおいて、「本質」というものがある。
それは、辛い、悲しいと感じる出来事があった時こそ、それに逃げずに立ち向かって考え考えた末、目の前のぼんやりした視界が、わずか晴れてくるように進む道があると、見えてくる。
それが本質へと向かっている方向。


「人は成長するしか道はない」と学んだ。

成長するとは、今まで培い慣れた枠から飛び出そう、超えようとする時だ。
ちよっとした勇気の塊が必要な時。
確かな決意というものがあれば、後々の、「決意」に対する持続力とその後の伸びへと繋がる。

「決意」とは

その先の
イメージをすれば、最終的に「よしやろう!」と、意識を裏打ちする力が湧いてくる事からはじまる。
つまり、
自分の為になり、
相手の為にもなる、
そして周りにはよい影響を与えられる  こと、
から考え出せたなら、堂々と胸を張って進んでいっていいと思う。

そこまで、準備を整え方向をバッチリ向ける。それで視界が開け、「決意する」に至る。

力強い気持ちに支えられたら、不安もなくなり、納得の笑顔がある。

      ・・・このプロセスを通らなければ、三日坊主に終わる。

マンネリを抜け出したい、
新しい事にチャレンジする、
ポジションを変える、
働き方に変化を加える、

など、人の決意するタイミングは様々だ。力が芽生えるきっかけのタイミング。

うまく働く人に、おんぶや抱っこでは、自分自身、またグループやチームであっても、それは伸びない。

それぞれが、考えを持ち、自立していけるように、刺激し合えば、レベルアップしながら、進化していける。
その様子は、他者から見ても気持ちの良い光景なはずであるし、応援したいとも思う。

人生の中で、いろんな決意をする。

新しいステージの決意が、人に成長する道を教えてくれる。
只々、すすんでゆく確信とともにあれば、振り返って不安材料を探す事もない、前を見ていける。

哀しみの涙を流しても、そこに次の光を見出せる力を、皆んなはもっている。
知識の量でもない、学歴でもない。
この秋、ムラサキシキブの実が色づき始めるころ、義兄の命に変えて、私達家族の新しい人生ステージが開けた。








2015年8月27日木曜日

他人が私!?

人から批判を受けた時、それまでに自分のしていた判断はさておき、批判の内容に立ち止まり、慌てて自分の描いたイメージを消し去ることがあった。

私って変なのか?
私って間違ってる?
私、取り残されてる?
空気読めてない?


ちょっと待って、
その批判の内容は、正しいか、否か?


熱い日に、日傘を忘れてしまい、帽子もない、「あ、そうだタオル載せとこ〜っと!」
と、頭にタオルをのせて歩いていたら、一緒に歩いていた小学低学年の女子に、こう言われました。

「そんなことしたら、笑われるよ〜」

「え、笑われてもいいよ、平気だよ。」
「だって泥棒みたい」

「泥棒??泥棒ってさ・・・」と、他愛もないおしゃべりをして現地につきましたとさ。


小学生時代にはよくある、ちょっと批判めいたものをどう受けるか・・・
身を守るために出した答え、「笑われるから」と他人に言われて、やめてしまうなら自分のことは
他人が決めたという事になります。


自分よ、それでいいのか?
自分の心配は自分しかしてくれない、その具合も自分が一番良く知っているんだ。
それは、自分が面倒見るところ。


笑いたけりゃ、笑ってください。そんなこと私の気にする所ではありませんよ。


受け取る言葉、受け取らない言葉、
批判を聞かないように耳を素通りさせる事ではない
自分の
よく思われたい、よく見せたいは、ときおり、受け取らなくて良い言葉を受け取り、おかしな行動になってしまう。

他人は他人、自分は自分で決めていい。
それの判断基準は、真に自分に為になること。よく考えたらわかること。
自分の為にならない事を、知らぬ間に選んではないか?

怖がらなくていいし、ひるむことなし。

自分への、「確かな目」を、ひらいてみよう。




慣性の法則

何か新しい事をはじめたい、はじめようと思ってから、時間がたつと次第に、思いつく前の自分に戻ってしまいます。

はじめるつもりが、はじめようと思うだけになり、はじめたいんだけど...,

と薄い願望で、「保留」してしまう。

こんな運びになった事はいくつもあります。

物体がそこにとどまろうとする力を表した、「慣性の法則」は、物理の世界だけでなく、人の意識の世界にも当てはめて、説明することができます。

新しい改善点や、思いついた良い事に対して、


できない理由が見つかる
何かほかの用事ができて、そちらのほうが優先・重要と感じる
面倒くさくなってきた
このままでいいや
どうせ自分は続かない
自分には無理なことだと諦める

    と

やってみよう
最初はよくわからないけど続けてみよう
今の自分に何ができるかを、考えよう
今より良くなれるなら、そうなりたい

に、二分され両者の方向は真反対、これを過去にあらゆるパターンでどちらかを選択してきました。
そうすると、「好き」と思うことはよく続き、「苦手意識」があれば、ブレーキが自然にかかります。

自分にとって必要なことなのに、ブレーキがかかった場合、それが今後の自分の行動パターンの形成に関わるとしたら、自分のためになる方を選ぶことが、ひいては自分をパワーアップさせる元となるわけです。


今の自分、そのものの考え方や性格は、それまで持っていきた思いや考え方によるものです。

こういう時にはこうする、こうなった時にはこう出るなど、その基準になった思いや、考え方は何だったでしょう?


しかし、意識の慣性の法則は、その領域を広げることができる、
苦手なものは、一生苦手ではないという事です。

もう一度・・・

勇気を出して、

苦手だと思っていた過去の記憶にチャレンジしてみる。
心配だから特に丁寧に向き合う、

すると、つまずいた場所が認識できるときが必ずくる。


「あ、そうか、ここか!」


絡まった糸が解けるようにするりと、それは爽快に、記憶が塗り替えられていきます。

これが自分1人の時は達成感と共に、
2人なら、信頼と共に、
3人なら、どうなるんだろう?
三人寄れば文殊の知恵は、ただごとではなくなる。

可能性が広がる40代を、存分に楽しみたい!










2015年8月24日月曜日

競争意識

小学生も終わりのころのある女子との会話。
     
      「夏休み楽しんでる?」から始まり、進学の話に・・・
女子「中学で一緒になる、あの小学校って賢いん?」
私 「んー、いろんな子がおるんじゃない?」
女子「だってね〜、聞いたら漢字テストの点数高かったよ〜うちの学校の人、
    ひと桁の点数の人おるもん。」
私 「点数ありゃ賢いとは限らんで〜、そんなに点数って気になるん?」
女子「うん。」

っとまあ、今の段階で「中間テスト!」という、キーワードも気になるらしいです。上の兄弟がいる関係も影響しているかもしれません。

また、「良い点をとっても、次の学校で点が取れる子に負けて、順位が下がる、頑張って点を稼いだとしても、次の学校に進学すれば・・・・、運動も一緒よね?」と。

女子・・・よくわかってるじゃないか〜

活発で明るい女子、バイタリティーあふれるこの時期に、そこで悩んでしまっては、
本当にもったいない。
利口な子どもたちに私達は何をアドバイスできるのでしょう。

点数化されるしかないものさしを、当たり前に受ける子どもたち、点数で並ぶなら、1点でも多い方が前に来る、一喜一憂しながら、そこから育つ判断基準とは、何が生まれるのか?

人は、それで判断されて良いのだろうか?



点数や成績を基準に上を目指し、必ず頭打ちがやってくる時がある。「目指す目標」としてならまだしも、数少ない限られた席に座ろうとすると、椅子取りゲーム状態になる。
真に養うべきものを間違えれば、人を見下す気持ちだって湧いてくる。
うまく行かない自分を責める
人の目も気になる
絶望感も感じるのかもしれない

人の思考パターンや、そのパターンからの行動の出かたは、その人の履歴となって蓄積される。
過去の履歴が今にどう影響を与えているかは、40代となれば、ふむふむいろいろと、やらかしてきたものだ。
その経験から、修正が必要なものもあれば、持ったほうがいい考え方もある。
子育てをするという事は、もう一度原点に帰って、何が人にとって必要かを考え直すきっかけかもしれない。
すぐそばに、今育っている若い芽が、あるのだから。

誰でも、いつからでも、はじめて良いと思う。


学ぶ時代には、学び方をマスターしてほしい。
マイナス思考で、学んでもそりゃ楽しくない。

最終的に「なんだって、やる気になったらできる」という算段を持てたらいいと思う。

これは、大人になっても必要な考え方だから。
やる気と研究心があると、その先がなかなか楽しいものです。


2015年8月19日水曜日

人の目が気になる

私達は、人の目が気になる生活をしてきた。

「そんなことしたら、人に笑われる」かもしれない、
「そんなことをしたら、怒られる」かもしれない、
「自分は人からどう見られているのだろう・・・?」っと、勝手に思考が走ってゆく。

また、
屈辱的な思いをしないだろうか?
迷惑と思われないか?
賛成されなかったら?   などなど

人の目が気になる後に、マイナスイメージがついてくる。
だから、そんな事態にならないようにと抜け出せるまたは回避できる方法を何とか考える。



それは、自分から出たアイデアという羽を広げようとしても、すぐさま、たたまなければならなくなる時だってある。自分の行動を制約しなければならないのである。子どもでも、大人でも。


なぜ、人の目が気になると思ってしまうのか?

たとえば、集団にはいれば、
最初は、みんなの集団にいても、ペースについていかなくちゃと、焦る気持ちを持ちつつ、初心の気持ちから楽しむというより、ついていかなくちゃと使命感に駆られることはないだろうか?
また、他人から言われたわけでもなく、自分の勝手な想像に苦しんでやしないか?

私も、
周りのペースを気にしていた頃があった。

娘が3歳の頃、私の力となった言葉をかけてくださった、子育て支援施設のスタッフの1人。

このスタッフに、はじめて会って、私の娘を見て、こう言いました。

手前におもちゃを置いてみて、「あなたは、なにがしたいのかな〜」と、初対面の子どもに優しく語りかけていた光景が鮮明に思い出されます。

「あなたは、なにがしたいの?」とは・・・決定権は本人にありと・・・。
私、いろいろ決めてしまっていたな〜と反省と衝撃のお言葉でした。

この子も待てば自分から動き出す、聞けば自分で結論を出せる子どもです。
人の目が気になり、時間を待てず、それだけですでに心の両目を塞いでいた私という存在が浮き彫りになりました。

「1人のこども、そのままがいいんだよ。」
と、
「そのままで・・、いいのか・・・。」
それでいいといわれるのなら、このままを信じようと思う日々だった。根拠はわからなかったけど。


自分に必要なものは、とらえよう!よくひかかりそうだ!?
今やっと、その根拠に近づいている感覚があります。
生まれたまっさらの状態から、人は何を学び何を開花させようとしているのか?

あらゆる過去の経験や、人物の過ぎ去った一生から、私達は学べる立場にある。
自分の生涯を繰り広げながら、過去から学び取り、いったいどのような状態にあるべきなのか?
それを、誰もが考え始める時代がやってきた。

あなたも、例外なくその一人である。

この疑問にたどり着けば、ようやく自分自身が動き出している。
今まで、気にしていたことは実は不必要だったとするならば、何が必要なのか?
答えはポンと用意されない、なぜならば考え方は技術だから磨くべきところに、ウエイトを置く必要がある。
チャンスを取り逃がす前に、準備しておくという事だ。




2015年8月16日日曜日

この世に残していくもの

一年前、娘にとって大切なお友達をなくしました。

歳の差は70歳以上、お隣に住む1人暮らしのおばあさんでした。

お付き合いの期間は、5年ほどですが、二人は逢えば楽しそうにおしゃべりをし、あらゆる話をしたそうです。
入院された時期もあり、小学校の宿題の日記に、「わたしの、友達が入院しました。腰が痛いそうです・・・」という書き出しで思いを綴ったこともありました。

お見舞いに行って、お手紙を渡しに行っては、「早く病院から帰ってこないかな〜」と期待しつつも、とうとう、その命に終わりが来たと知った時、娘はまさに三日三晩シクシクと思いだしては、泣いていたものでした。

夏休み期間だったので、日々どうしてやったらいいものかと思いましたが、辛いけれど命には終わるが来ること、これからはいつでもずっとお空から見てくれているよ、とシクシクするたびに、話をしていました。

そしてお葬式の日に間に合うように、彼女にお手紙を書いて親族の方へ託すことにしました。
短い文でしたが、娘が本当に楽しい時間を過ごし、また生まれ変わってもお友達として逢いたいという内容の文を最後のメッセージにしました。

いつか、自分も命に終わりはやってくる。

それまでに、形はないけれど、まだ生きている人たちへ残せるものは何だろうと思う。

今、生きてきて、わかったことがある。

今、生きてきて、知らないこともある。

体があって、思いを表現できるすべや、誰の前にもすぐ近くにたくさん学びがあるからこそ

シンプルで、忘れてはいけない、「何か」に気づく。


その気づきは、人によって種類は違うかもしれないけど、向かっている方向は受け継がれていってほしいものを、残していけたらいいと思う。


死ぬ準備といえば、まだ早いと言われるかもしれないけど、私の周りで起こることは、このような形で
考えるきっかけをくれる。
よく考えて自分が出した答えは、自分にとって必要なことだ。


本物の楽しく生きるを探し求めて、「行くぞ〜!」















2015年8月15日土曜日

時間をかける

「いままで、何に時間をかけてきましたか?」

と聞かれて、変な質問だと思うかもしれません。
「いままで、何にお金をかけてきましたか?」なら、ピンとくる質問でしょうか?

世の中は、お金が一番、お金が基準として回る仕組みとなっています。

ある意味,価値をつける道具には、なるかもしれません。

ほとんどのものは、お金で買えるようになりました。
そして、あらゆる仕組み、人が今欲しいと思うものにどんどん値段が付けられ
売られるようになりました。

しかし、中には、お金で買えないものもあります。

それは、自分自身で本当に身につけたいもの、人間力を磨くことです。ノウハウ本はたくさん出回っています。

過去に憧れる人物がいて、そんな能力が自分にもほしいと、本を読んだりして学んでいる人はたくさんいます。
しかし、魅力的なノウハウも、一度聞いて、または読んで「よかった」という経験だけでは、思い出で終わってしまいます。


人間の成長に魅力がたっぷりあるからこそ、ものになるまで学びたいと思うのです。
そのためには、同じ事でも繰り返し、納得が起こってもなお、繰り返し、
自分の脳のデータを「オリジナル進化した自分」にするために、時間を使うのです。

脳のデータは、自分でしか作れません。自分に、日々蓄積データとしてつまれていくのなら、誰もがほしい、お金で買えない、その人そのものの魅力になるわけです。


確かに、そうなりたいと願う気持ちを、察するように現れる商品や、ノウハウが書かれているものを今までにもいろいろ見て来ました
最近は「コレひとつで、すぐ身につく・・・」という、時間かからず、ちょっとお怠けごころをくすぐられてしまう、うたい文句もありますが、それは本当にそうでしょうかと考えることが大事です。

限られた時間だからこそ、繰り返しに時間がかかったとしても、それは学びの近道とも言えるのです。
あと何年自分は生きるのか?
逆算した時、いまの社会で苦しんでいる状態をみて、その路線に自分は乗ってはいないか?
自然の摂理を学びに活かして・・・

味噌よりも熟成期間が必要な自分の脳ミソ、使い方を決めるのは自分自身。それを知るのも、実行に移るのも、求める力が強ければ強いほど、有効です。
時間をかけて仕込めば、自分らしいポジションが見えてきます。







2015年8月8日土曜日

心の視覚

人は、目で見ているものと、心で見ているものの、2つの視覚を持っている。

実際目で見て、あると認識できるものならいいが、それが「もう見たくない、見ないようにしたい」
と思えば、そう思ったとおりに見ることができる。

つまり、あってもなかったことにできるほど、心の中で拒否をし続けて生活することも可能である。

しかしそれは、本当は見えているのに自分に嘘をついた形で「見ない、見えない」ようにしているので、

時々、本当の自分は「それって、おかしくない?」
と、心の底からささやくように、ふと思いとして湧き上げてくるときがある。

そんな時、「やっぱり、見えているよね」と、認めてしまえば実はなんてことはない。
だけど見てしまうことに、恐れや不平不満、恐怖などを感じてしまうと、やっぱり「見ない、見えない」ことにして、蓋をしてしまう。
フロスと♯30木綿糸、どっちだ!?

歯と歯の間を掃除する、デンタルフロス。
歯ブラシで届かない部分の汚れをかき出す、糸。
これを、使うと結構汚れがついてくるので、びっくりしてしまう人もあると思います。

一度通したら、どれほど往復したらいいのか?
歯茎の中に入れても大丈夫なのか?
歯と歯の間を通す時、勢い余って歯茎にグサッ、なんてことも・・・

など、質問を受けました。

「1回通して、まだ汚れがあるような気がするけど、それは見ないようにしていたんですが・・・、やっぱりまだ、ついてますよね〜。」
ってなことで。

はい、そのとおり!よく、たどり着きました。

このような、ほんの生活の一部で些細な事かもしれませんが、ちょっと立ち止まって考えてみたら、
疑問に思うことは、自分に問いかける質問として大切なことです。

自分に問いかける質問力をアップさせる。それは、人の考える力をアップする方法です。

自分のまわりで起こること全てに、何か質問が湧いてくるか?またはそんな気持ちを持って見てみると、何かに気づくときがあるかもしれません。

心(潜在意識)は、善悪の判断ができないという性質を持っています。

自分にとって良かれ悪しかれ、その経験がその時「快」と感じるか「不快」と感じるかで仕分けされ、その人の行動パターンを作っていきます。

確信に迫らず、見ないようにして「安心」を覚えたら、それはそれでよし(「快」)とする経験となります。

しかし、いつか頭打ちが来る、そうまでなくても「あれ?」と、なるわけです。
私達は、この勘違いのような間違った感覚は修正する必要があります。

問題が生じた時、立ち向かい乗り越えていけば「快」の経験となります。
反対に、立ち向かわず「不快」として、逃げてしまえば本当は超えられた問題も、超えられぬまま
形を変えて同じパターンの問題がまたやってきます。

自分のためになることに、「快」と感じ、
自分のためにならないことに「不快」という感じ方を、自分に学びましょう。












2015年8月2日日曜日

ゴールまで走り抜ける

ゴール近くになるとゴールが見えているためか安心して力が抜けてしまう,
または、到達する前に負けと決めてしまい力が抜けてしまうのか。

前の人を目指して追いかけてきたならば、猛烈な勢いで、やってくるときもあります。目標がすぐ目の前に見えてあるからです。

いざ、勝負に出る時は、それ以前に、いわゆる練習段階で小さな勝負を積み重ねておく必要があります。
自分のすぐ前にあるちょっと頑張ったら出来そうなことを、「よっしゃ〜!」と超えることででいいと思います。

この小さな「よっしゃ〜!」をたくさん経験していると、後にあらゆるレパートリーが増えていく種を育てることになります。
この、
「よっしゃ〜!」
と自分に言える時の気持ち、わりと爽快な感じじゃないですか?
この、ひとつひとつの作業を気分よく、達成感と共に過ごすと、とても満足します。

逆に、達成感に到達しないまま、勝負どころが来てどんな結果が出てとしても、その後
時折、「ふと心寂しい瞬間」がよぎります。
         それはなぜでしょうか?

この真逆の差は、その後の行動にとても影響を与えるのではないでしょうか?

子どもたちの、ある試合を見てきました。
よく練習を重ねているチームが、いくつかある中、その自信の様子を集団パフォーマンスで、盛り上げている粒ぞろいのチームがありました。
ところが、勝ち上がるうちにパフォーマンスもなくなってしまい、表情がくらくなっていき、勝ち上がりレベルアップする厳しさに、どうやら気づいたようです。このチームになかったもので、他のチームが持ってるものがありました。

勝ち上がりながら、益々輝き出すチーム。
チーム内のコミュニケーションがよくとれて、個性豊か。
子どもらしい自由な空間の中に、キラリと光る緊張感がありました。
練習の時はじゃれあうように、大きい子たちは、小さい子を可愛がる姿も、よくあります。

まさに、この子たち「よっしゃ〜!!」を、たくさん積んできたんだろうな、と思えます。

チーム内の人材には、それぞれの色があります。自分だけの色を発色したまま、チームでゴールへ駆け抜けていく姿には、本物のエネルギーを感じました。

ひとつひとつを、積みあげて得るもの、それは大人にも持てるのです。



昨夜、2つ目のおはなしかい夏まつりイベントが無事終了しました。

蓋をあけたら、煙がモワモワ〜な〜んちゃって。
メンバー色は、人生経験と共に濃く、またものすごい勢いとなり興奮冷めやらぬ楽しい
お祭りの1ページとなりました。
最初は、「いやいや、私にはできない!」、なんて言ってたけど・・・??
決めていたセリフより、その人そのものが魅力的の、アドリブ劇なり。

「やれば、出来る!!」

お孫さんに良いプレゼント話になった、協力メンバー様、本当にありがとうございました。

・・・祭り終わったあとも、えらい盛り上がってましたね、
ボリュームMAXで夜空に、「あーっ、はぁっ、はぁっ、はあ〜。」(今日はお祭り・・笑)





2015年7月31日金曜日

自分を大切にする

40代、今までの自分を振りかえって、「自分で自分の面倒をよくみる」なんてことは、いつも後回しにしていたような気がします。
自分より先にこどもたちへ・・・、
もうちょっと私がここで頑張れば、あとうまく行く?
少々無理をしても、社会的に取り繕う??などして・・・。

自分は、「本当に苦しい」と言おうとしているのに、聞こえない「つもり」で頑張って、つぶれてしまうパターン、あなたも経験してませんか?

自分という存在は、自分にとって一番尊いものです。
まずこれを、いつも忘れないように、思い出せるようにすることが、ひとつのトレーニングとも言えます。頭の中に感覚としてなかった場合は、自分によ〜く教えこませるように、「どうして自分という存在がそんなに大事なのか?」と、その裏打ちとなる理由を、自分なりに考えてみる必要があります。

これは、我先にという感覚ではありません。

つまり、この言葉を知ったら、
「そうだよね〜、自分を大切にしたら、自分に耳を傾けてあげられるよね。」
「自分は何を願っているのか?」
「今聞いて欲しい気持ちは?」
自分を卑下したり、ないがしろにしていることはないだろうか?それは、自分を大切にしていないことなのでは?ついつい出てしまう、一言に、そんな言葉が隠れてはいないか?

などなど、イメージをふくらませていくと、本当の自分に近づいて行けます。

本当の自分が、核の位置にあるならば、そこへたどり着くまで、遠い位置にいて、悩んだり不安を抱えている人は、たくさんいます。
願いはあるのに、行動が反対になってしまう、あきらめてしまう、三日坊主になってしまう。


いい加減に脱したいでしょう。

まずは、当たり前に大切な自分を認めて、よく見て下さい。
自分がわからなくて、悩むのは、知らない自分、見ようとしていない自分がいるからです。
自分を大切と認識した時、分かったことが増えた時、
   
           自信を持って輝ける一歩を踏み出していける時です。

あなたにも、できること。




2015年7月27日月曜日

トラウマ

何かのトラウマを、持っている人がいます。
歯科においても、歯科恐怖症の人は、めずらしくありません。

その時の苦痛が大きければ大きいほど、思い出すだけでも、嫌な過去です。

その時の状況や、年齢的なもの、など環境によって様々です。

よく聞くのは、
「とても痛い思いをして、未だに怖い」
「痛いけど体が硬直して、我慢するしかなかった」
顔をタオルで、覆われる恐怖心
小さい頃に、抑えつけられた・・・など。

これを機会に、歯科を遠のき、症状を悪化させてもなお、まだ受診せずにいる人も、
あると思います。

トラウマは、もう過ぎてしまった過去の出来事ですが、それを超えるには、
もう一度同じ道を試して
超えられる実績ができると、一歩ずつ進んでいけます。

それに欠かせないのが、診療室内では、コミュニケーションです。

これまでの、歯科に対する経緯
今の、ありのままの、症状や状態を整理して伝える
これから、放置した場合の考えられること、起こりうる可能性
それを回避するために、今できること
それに必要な、お互いの協力

つらかった気持ちをくみながら、診療室にまで足を運ぶ行動に移ったのならば、それをうまくつないで、心をほぐして、過去超えられなかった部分を、少しずつクリアしていくと、今度は本人の自信につながります。

今日の「できた!」は、次の「できる!」の、確信に。

これは苦手克服の、プロセスとなります。

あまりにも、結果を早く求めすぎ、「できた」か「できなかったか」に焦点を当てると、早く結果が出ないばっかりに「できていない」と、答えを出してしまっては、あきらめが速すぎます。

長くかかって、癖ついてしまったような経験は、時間が必要で、解きほぐすプロセスに注目できる視点が必要です。

しかし、「乗り越えてみよう」と思うも、「やっぱり嫌だ」と、逃げるのも、実は本人の自由です

                 が、

「嫌だ」と逃げまわっていることについては、まためぐりめぐって自分の目の前の問題として必ずやってきます。

何故やってくるかというと、超えていないからです。

あらゆる分野で「超えよう」と、頑張っている人はたくさんいます。
なぜ、超えられないのか?
それは、何がそうさせているのか?
それを、超えたらどうなるのか?

と、考えることが自分勉強で、これは今の学校教育で提示されることのない考え方です。
「なぜ?」と、立ち止まって考える、それを知りたいと思うか、思わないか?

これが、運命の分かれ道、流れる思考に乗せてしまったら、「なぜ?」は、「ま、いいか。」となり、そのうち、なかったことになります。

自分勉強って、一つ一つ「あ、そうか、これか!」に、辿り着くため、絡まった糸が解けるようなすっきり感があります。
そうやって、「できた」があり、積み重なって、自信につながるわけです。
いくつになっても、気づいたときが始まりの時、勉強とは嬉しくすすめるものです。


昨年まで水恐怖症の娘、スイミングスクールでマンツーマン指導、粘り強く教えてくださった先生に感謝。やったね!







2015年7月26日日曜日

いいと思って、やらなかった事

「あ、それいいね、私もやりたーい!」
と、言ってみたものの、「それは、こうだよ。」と、
回答に近いものをもらった時、「ふーん」と眺めては、一回聞いたまま、一回見たまま、なぜか、「わかったツモリ」になったのか、
時間がたてば、「私もやりたーい!」は、
無かった事になっている。

40前後になると、「自分はこのままでいいのか?」
と考える時が来る。自分の健康、病気のような自覚できるものから、時間や、精神など、目に見えないものの価値に、ふと目がいく。
自分に確かな自立を持っていないと不安がよぎるから。
私も、その一人だった。

だから、何をどうすれば良いのかと頭の中で、ぐるぐる気になる思考がしつこく巡り、求めていると、目の前にご縁とも言える情報がやって来る。

       自分の目の前に来る情報には、

1, お知らせニユースや雑誌のように、一回見て確認できれば二度と見る必要のないもの
                 と、

2, 何回も繰り返して、読み返し、自分が完全マスターするまで必要とする価値のあるもの

に、分かれる。

つまり、自分にどの程度必要性があるのかによって、

情報を自分で処理し選択できる目が、いるという事でした。

ところが、全ての情報を、日々流れてゆく会話のように、処理をしていたら、2のような本当は自分にとってマスターすべき熟読が必要なものまで、1と一緒にしてしまったらどうなるのだろう?
探し求めていた情報にも関わらず、その時の処理ミスで、実は大切なチャンスを逃してしまうことになる。

チャンスの神様は後ろ髪がない

向こうからやってくるチャンスを、正面から受けられれば、チャンスはゲットできる。
通り過ぎてから追いかけても、その背後から掴み取ることは不可能であることの例えでこのような表現がある。後ろ髪が無いって、どんな髪型!?は問題では無い、それはただの「ひやかし道草」となる。

あの日、あの時は、私のチャンスだったと、悔やむより、
これから来る自分のために来た情報には、「コレだ」と、掴むための準備は
「私は、こうなりたい」とわざわざ考えなくても、すぐ頭に浮かぶまで、自分の頭の中で創り上げておく。
心のアンテナは、必ず次のチャンスタイミングに出逢える。

「ダメな自分」を考える必要はない、それは不必要な考え方。


今度は思い切って掴もう!それが、確かな内容なら、2、ですよ!
輝く私を目指して、準備しませんか?

人生に巻きを入れろ、僕のシッポも巻入ってるよ!







2015年7月22日水曜日

イメージを高めるには

私は独身時代、衛生士の免許を持ち、限られた分野以外は、ただの凡人でした。
ことに、料理に置いては、凡人どころか、食べることは好きだけど、作ることに全く無頓着で、苦手意識もたっぷり溜め込む、後ろ向き人間でした。

なぜ、料理が苦手だったのか?

それは、料理に興味があり、料理することが自然になった今なら、答えがわかるのです。

問題は、「イメージできる力が、空っぽ」に近かったからです。


それに気づいたのは、愛娘の料理に対する興味を、そばで見ていたからです。

私の過去の経緯から、料理好きな女の子にと、苦手ならないためにはどうすればいいかと考え、
興味を持ったその時に、すぐさまGOサインを出すべく、料理作りに参加させるようにしました。

興味に合わせて、包丁を持ったのは娘2歳の頃でした。
性格的にも、じっくりゆっくりタイプだったので、少し時間をかけて、野菜を切らせて見ました。
「けっこう、いけるね・・・。ん〜、これからもお願いするよ。」


興味を持って、「これ、どう使うのか?」とか、「やってみる?」と聞いて、「やる。」と答えたその時は、
とても集中して、丁寧に教えます。
一度、丁寧に教えておくと、その次は自分で進んでいけるようで、本人なりのやり方を自分で見つけるみたいです。
特に刃物は、扱いがわかると、便利です。ハサミも同様に(これは、かなり早い時期に子どもからリクエストがかかります)

興味の基礎をしっかり固めれば、あとは、聞かれること以外は口を挟まずに子どもを信じて自由に。
やはり、応用編は本人が編み出します。ケガもしますが、大きくはありませんでした。

これを、料理✕娘とすると、
まず、調味料や、元なる味をよく知っているという事です。

醤油
梅干し
ごま、ごまペースト
焼き海苔、青のり
みそ
マヨネーズ
ケチャップ
ソース
砂糖(てんさい糖かきび糖)
とまあ、この種類をマスターしているので、自ずと「サラダつくる〜」となるわけです。
彼女の、複雑なドレッシングであえられた、野菜サラダは、いつも美味しいです。毎回配合の関係で味も、違います。
昨年10歳娘への、お誕生日プレゼント

味見をしては、「んー、塩かな・・・。」と、いろいろ考えて作っています。
娘と台所に立つのは本当に楽しいです。

私が、料理でわかっていなかったのは、ひとつひとつの基礎的なことでした。
それをよく知れば、イメージが湧きやすくなります。

料理法をみて、方法は書いてあっても、どんな状態になるかのイメージがわからなければ、ゴールが見えないのです。
イメージがあると、こんな感じになったらできあがりという、ゴールが見えてきます。

私の遅がけ、料理の勉強は、
我が子の離乳食から始まり、
夫が料理好きなため、真似するがなかなかうまく行かず・・・、
5年前に鮮魚を売るバイトに関わり、魚を1匹まるごとさばく練習がはじまり、
遂に3年前、はじめて真剣モードで、正食料理教室に通いました。

この、料理教室は、それこそ、メニューはあるものの、方法のみ書いてあり、その状態は書いてないのが特徴のテキストで、状態を自分で書き込んで学んでいきます。
テキスト文字よりも、書き込み量がびっしりあり、あとで読み返してもいつでも思い返して作れます。
今となっては、私の大事な料理本です。

ながく、眠りこけていた、私の才能がようやく、開花をはじめた料理分野、そのポイントは、イメージに必要なパーツを取り揃え、試し、繰り返すことでした。

才能は、誰でも、どの分野においても、開花する可能性は充分あるそうです。

「やったら、できる!」って、何にでも当てはめられます。できないことは、ないのです。

自分は、できないと最初に決めているのは、その力量よりも、自分の勝手なマイナス妄想がイメージすることさえ、ストップをかけていたのでした。


考え方は、技術です、出来ると信じて、またはできたらいいなと願って、それに必要なことを考える些細なことが、一歩一歩の、始まりでした。